年間第22主日(B)

皆、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい(マルコ7・14より)

 「先に与えられる恵み」がなければ、神をはっきりと知ることができない。神にどう祈ればいいのかもわからず、日常生活の中で何がいいか悪いかを識別することもできない。本当の回心は、卑屈になって反省するときではなく、私たちに回心を呼びかける神の声に聞こうとするときに始まる。

  毎日曜日、主は自分の体をもってそばに来られる。その言葉は「どんな両刃の剣よりも鋭く」(へブライ4:12等)、私たちの心の思いや考えを見分ける。時々、ペトロのように「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いたくなる(ルカ5:8)

   しかし、自分の罪を見いだすときに私たちは絶望(guilty complex)に陥らない。罪を見いだすその同じ瞬間に私たちは、自分が永遠に愛されていること、主が自ら命を尽くして心と魂を癒す医者であることを知らされるから。彼の言葉はーー今日のような厳しい言葉でも――私の心の複雑な動きを診察する医者の聴診器のよう。そして、私たちの心の異常な動きと病いを癒す薬のよう。今日その言葉を聞く人は新しい命を生きることができる。神の愛は私たちの罪や弱さに勝る。「罪の中でも私たちは主に会うことができます」(教皇フランシスコ)。

   主よ、私たちはあなたを愛します。私たちの命を終わりのない感謝の祭儀にしてください。