年間第29主日(B)

人の子は仕えられるためではなく仕えるために来たのである。(マルコ10・45より)

 前回の金持ちの若者がイエスを知ることを妨げたのは金銭欲だった。今日の箇所にあるのはイエスを知るための、あと二つの妨げ。その一つは野心。ヨハネは野心家だった。もう一つは嫉妬。他の弟子たちはヤコブとヨハネのことで腹を立てた。この三つの悪徳がここで問題になっている。

 ヨハネの言葉は「お願いすることをかなえていただきたいのですが」という日本語訳になっているが、ギリシア語では非常に強い命令。つまり、イエスはエルサレムで殺されると三度も言ったのに、弟子たちはまだわかっていなかったということ。でも、前回と同じように、イエスは彼らに対して怒らない。私たちが感じるのは彼の寂しさ悲しさだけ。神は私たちの罪に対して怒らずに悲しむのだ。
  イエスの返事には二つのことが含まれる。まず第一に、彼は単純な人間ではなく、世界のことをよく知っていた。戦争や暴力をはじめとする間違った権力の行使のために、どれほどの苦しみを人々は受けてきたか。しかし第二に、イエスが言うのは、私たちのあいだではそうではないということ。権力、力は人の上に立つため、人を利用するためではなく、人に奉仕するためのもの。なぜか。神がそうだから。
 赤ちゃんが病気の時にお母さんが、主人が病気の時に奥さんが看病するように、神様は私たちのベッドの横に座って尽している。今日読んだヘブライ人の手紙の中にも書いてある通り、イエスは昼も夜も父なる神の右で私たちのために尽して祈る。  
 私たちは少しでも責任を任され権力を渡されると、ヨハネやヤコブのように、すぐに自分が上になりたい気持ちになるが、教会の中で何かの役割をもっている人はみんな仕える心でなければならない。パパ様が昨日言われたように、仕えることは聞くこと。世界宣教、ミッションも相手の悩みを聞くことである。相手の苦しみ、悩み、要求に気づく恵みをいただけるよう今日いっしょに祈りたい。

(画像はハインリッヒ・ホフマン「キリストと金持ちの男」、1889年、ニューヨーク・リバーサイド教会)