諸聖人

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある(マタイ5・12a) 
 古くから数多くいるキリスト教の聖人の伝記を一望すると、いくつかの事実が浮かび上がる。
1.聖人の職業は実にさまざま。私たちは、聖人になるには修道者になって修道生活を送って…とイメージするが、聖人には王もいれば乞食もいる。インテリも庶民も、医師もうつ病の人も、農民も教師も、ストッキングの会社の社長もいる。主人も召使いもいれば、年寄りも子供も女性もいる。あらゆる時代、国、身分、能力、職業にかかわらない。つまり、聖人とは私たちにとって身近な存在なのだ。
2.そこには犯されなかった罪がない。殺人(ステファノの石打ちへのパウロの賛成)、浮気、泥棒、詐欺など。
3.しかし、どの聖人にもある特別な経験がある。それは回心の経験である。第一に我に戻り、第二に赦しを得る経験である。ベネディクト16世もよく言っていたように、キリスト者にとって聖人は完全な者ではなく、赦された者なのだ。回心の形はいろいろで、パウロのように馬から落ちる場合もあれば、アヴィラの聖テレジアのように普通に信仰者の生活を送っていて得る場合もある。突然起こる場合もあれば長年かかる場合もある。しかし、心をひっくり返す経験がある。それは悪い生活から善い生活に移るのでなく、受け容れられ愛される経験、自分の力を越えた愛に覆われる経験である。なぜなら、「聖なるもの」は神だけだから。私たちは神に抱かれて、神の愛に自分をゆだねる時だけ聖人になれる。
4.聖人には、キリストに対する、はっきりした、独特の、理屈も疑いもない愛がある。キリストに対する個人的な深い関係がなければ聖人ではありえない。自然や静けさなど宗教的な生活を送るかどうかは無関係である。聖人の中には神秘的な聖人もいればそうでない聖人もいる。ただ聖人にはキリストに対する根本的な関係がかならずある。

5. 聖人には深い祈りの経験がある。神学があるかないか、言葉を用いるか沈黙か、座ってか歩いてか、祈りの形はいろいろでも、キリストに対しての親しさがある。聖ヴィアンネが言うように、ある農民は何時間も聖体の前に座ってじっと見るだけ。具体的に言うと、聖体に対しての特別な関係のない聖人はいない。聖体なしに聖性はない。

6.聖人には愛から生まれる創造性がある。深い祈りから、創造的愛、手のある愛があふれ出る。病人に対して、あるいは賢い人に対して新しい道を拓く。リジューの聖テレジアのように、修道院の中で観想生活を送っていても宣教の保護者になる。修道会の創立者なら、一千人、二千人、三千人の人が歩ける道を拓いたことになる。いろいろな国に聖人がいて、その国でどのようにイエスの道を実現するかを教えてくれる。彼らの伝記を読むと、私たちは勇気をもらい、助けられる。
7.聖人には独特の喜びがあり、苦しみも越える。体の病気、敵からの迫害、教会からの迫害など、いろいろだが、人間的世間的でない喜び、「原因のない慰めconsolatio sine causa」(聖イグナチオ・デ・ロヨラ)がある。食べて喜び、人から拍手されてうれしいのには原因があるが、原因のない喜び、つまり神からの喜びと慰めがある。穴吊の刑を受けた長崎のマグダレナは、十三日間なかなか死なかった。しかし毎朝一つの手に慰められ、苦しみがなくなっていた。
 今日私たちが祝うのは、山上の説教の真福八端であるイエス自身に惹かれた人たちの祝い日。教会の歴史には、聖マリアをはじめ八百万の、記録が残っていないほどたくさんの、それぞれの形でキリストの道を歩んで今神とともにいる人たちがいる。特に私たちが祝うのは、洗礼の時に渡された聖人。そして、私たちの教会堂の守護聖人ヴィアトールを、また日本ではじめて私たちにキリストの話をしてくれたフランシスコ・ザビエルと日本の聖なる殉教者を祝いたい。