人は皆、神の救いを仰ぎ見る。(ルカ3・6より)
今日と次の日曜日の福音書の主人公は洗礼者ヨハネ。ルカはヨハネについて書くに先立ち、ローマ皇帝、ユダヤの総督、ガリラヤの領主、大祭司など権力者の名前を並べる。それはヨハネとイエスの物語が虚構ではなく歴史的な事実であると示すためだけではない。そこには、最近の聖書学者がルカ福音書について言うところのユーモアが典型的な形で現れている。人間の常識では、歴史を動かすのは権力者であり、何かを知りたければ権力者に接触するのがよい。三人の博士たちもイエスを探してベツレヘムに着いたときヘロデ王のところに行った。しかし、それは間違いだとルカは言う。実際に神の言葉が降ったのは、誰も知らない砂漠の中にいた、誰も知らないヨハネである。それが神のやり方である。お告げを受けたマリアもそう。神の啓示、神の恵みを受ける人たちは人間の見方ではつまらない人たちだ。神はそのすばらしいわざのために一番弱い者を選ぶ。神が愛するのは小ささであり、謙遜なのだ。
洗礼者ヨハネは、聖書を読むと男性的で荒っぽく野生な生活を送っているイメージが強いが、彼は何よりも神のそばにいる喜びを感じた人物である。身ごもったマリアがエリサベトのところに行ったとき、エリサベトの胎内でヨハネがキリストが近づいたことを喜び踊ったほどに。そのヨハネの喜びを私たちも知っている。それは洗礼の時に感じた喜び、キリストに出会った喜びである。神から罪を赦された喜び、深い祈りの時の神秘主義者の喜び――それがヨハネの喜びなのだ。
ラファエロ「フォリーニョの聖母(聖会話)」、1512年、ローマ・ヴァティカン宮美術館所蔵