わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは……(ルカ1・43より)
イザヤ、そしてヨハネに続き、マリアが待降節を代表する最後の人物として私たちをイエスへ導く。
マリアは身ごもり、エリザベトの家を訪れて、3か月を過ごす――ルカ福音書の今日の箇所は、新約聖書では唯一、女性だけが登場するページであり、女性のやさしさと喜びが溢れる場面である。マリアから聞いたにちがいないこのエピソードを物語るとき、神学者であるルカは旧約聖書の一つのページを思い出し参考にしている。この点は、今日の箇所を理解するために非常に大切である。そのページとは、ユダヤ民族にとって、教会にとって、キリスト者にとって、メロディーが盛り上がるページである。
サムエル記下第6章によると、神の箱はエルサレムへ運ばれるときにユダを通った。同じように、マリアはユダに行った。神の箱の前でダビデは踊ったが、洗礼者ヨハネもエリザベトの胎内で踊った。ダビデは「どうして主の箱をわたしのもとに迎えることができようか」と神を畏れたが、エリザベトも「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」と言った。ダビデとイスラエルの民のように、エリザベトも喜びの叫びを上げた。神の箱が3ヵ月間エドムの家にあったように、マリアはエリザベトのところに3ヶ月ほど滞在した。
旧約時代、神の箱(聖櫃)は神が民のうちに現存するしるしだった。ルカが言うのは、神の現存をあらわすしるしが今はもう箱ではなく、生きた人間であるマリアだということ。木でできた神の箱が外側も内側も純粋な物質である金を貼られていたように、マリアは外側は罪から解放され守られており、内側は聖霊に満たされている。神の箱には神の掟を書いた二つの石板が保存されていたが、マリアの胎内には、神の御言葉そのものであるイエス、神の御旨をはっきりと実現するイエスが宿されている。だから、マリアの胎内は、神の新しい器である。
ルカが私たちに言おうとしていることには、教会にとって、キリスト者である私たちにとってとても大切な意味がある。マリアがこの世にキリストを生み出したのと同じように、教会はキリストを生み続ける。その妊娠状態は今も続く。神は私たちにそれを求めている――マリアの胎内にもう一つの命が生きていて、その二つの命、その二つの心が切り離すことができないように、私たちがキリストとともに生きることを。クリスマスの深い神学的意味はそこにある。
画像は、ドメニコ・ギルランダイオ「御訪問」、1491年頃、ルーブル美術館所蔵