四旬節第3主日(C)

「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」 (ルカ13・8より)

 神のイメージを歪めてしまう誘惑よりも危ない誘惑はない。四旬節のあいだ教会はイエスの教えに基づいて、神の正しいイメージを求道者に伝えるように努める。

 今日の箇所は二つの面をもつ屏風のようだ。その一方は、神殿で起きた恐ろしい事件。ローマ人によって数人のユダヤ人が殺されたというニュースをイエスの耳に入れる人がいた。ユダヤ人は思う、こんな恐ろしい死に方をした彼らはどんな罪を犯したのだろうか。イエスは言う、神は罪人を裁き地獄に落とす方ではない。もっとも、命は不安定な土台の上に立てられているから、今こそ回心すべきだ。

 他方は、神を求める求道者の心を感謝と喜びで満たすたとえ話。イエスが宣言する神は、実をつけないいちじくの木を切り倒すように命じる神ではない。イエスの神は、いちじくの木に常識以上に忍耐し希望をかける園丁の姿をしている。イエスの神は、私が罪を犯し、実を結ばない時にも私に信頼を置く。実を結ばなかった私の過去を見るよりも、私の中に隠された、聖人になる可能性を見る。私が放蕩息子のように、家から遠く離れた余所の国にいるときも、私を愛してくれる。イエスの神は人を裁いて追い出すのではなく、失われた羊を探しにいく。元気な子どもより、病気の子どもを愛する。罪を犯す兄弟を審判しないように人に頼む。そして、多く赦された人だけ、神のように兄弟を赦すことができるのだ。

 回心というのは、裁く神から、愛と赦しの肥やしをやる園丁である神へ移ること。昼も夜も自分の命をかけて、私たちの命の木を育てようとするこのような神に信頼するように求道者は呼ばれている。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5・22-23)。