復活節第4主日(C)

わたしはわたしの羊に永遠の命を与える(福音朗読主題句 ヨハネ10・28より)

 山があり羊が多いイスラエルの地では、羊飼いは馴染みのある職業。旧約聖書ではまずアベルが羊飼いで、アブラハムもヨコブもモーセもダビデも羊飼いだ。神もイスラエルの牧者と言われる(詩編など)。メシアも、聖なる民を牧する者として預言されてきた。そして、福音書記者ヨハネは復活のイエスがキリストであり神であることを示すために、羊飼いという象徴(シンボル)を使う。教会が復活節に羊飼いのテーマをとりあげるのはそのためだ。
 よい羊飼いイエスと言うと、私たちはルカを思い出す。失われた羊を探しに行く羊飼いイエスは、キリスト教美術でも好んで描かれ、子羊を肩に乗せた姿で親しまれている。それはやさしさ(パパ様の言う「テルヌーラ」)のイメージだ。ところが、ヨハネは少し違った特徴に注目する。それはやさしさより、力、勇気、強さ、タフさのイメージだ。羊を盗もうとする泥棒や強盗(1節など)から羊を守る者、羊を食い殺そうとする狼と(ライオンや熊と戦ったダビデ(サムエル記上17・34-35)のように)命がけで戦い、羊を救い出す者がヨハネの言うよい羊飼いなのだ。結局、ヨハネが言いたいのは、イエスが絶対的な救い主であること。ただ(無償)の愛を注ぎ、命を与え守るイエス。救いはそこから始まる。イエスの後を行けば、確実に救われるから、彼に命を任せることができる。だから、「羊飼い」とはただの比喩ではなく、「救い主」「メシア」という言葉と同じように、復活のイエスを示すためのキリスト論的称号なのだ。
 では、救われるには具体的にどうしたらいいか。27節には三つの大切な条件が出て来る。
1.第一は聞くこと。
 そもそも教会の信者とはキリストの言葉を聞く者である。グループの作り方はいろいろあって、例えば互いに似た者や気が合う者、共通の趣味をもつ者同士が集まりグループを作るが、キリストの教会に属する根本的な特徴は、キリストの言葉を聞くことにある。キリストの声を聞くことから、すべてが始まる。
 聞くという言葉は旧約聖書でも大切だ。イエスエルへの神の最初の言葉は、「シェーマ、イスラエル(聞け、イスラエルよ)」だった。
 司祭でもパパ様でもなく、まず第一にキリストの声を聞くこと。司祭の言うことは、ただキリストの言葉を伝える限りで聞くべきだ。(復活節第4主日は世界召命祈願の日ではあるけれども)教会の牧者はただ一人キリストだけだから。
 「聞き分ける」。世の中には、テレビとか一般の常識とか、偽物の声がいっぱいある。キリストの声を聞き分けるためには、聞き慣れる必要がある。クリスマスとイースターにしか教会に来ないなら、聞き分けることができない。
 第二は知ること(「わたしは彼らを知っており」)。知るという言葉は旧約聖書では、婚礼を意味し、夫婦の関係を示す。それは、親しさ(インティマシー)の関係、互いに譲り合う愛の関係だ。
 第三は従うこと(「彼らはわたしに従う」)。イエスの後を行くにはイエスを知るべきだ。イエスはずっと人によい行いをして生きたとペトロも説教で言う(使徒言行録)。イエスを知りイエスの真似をすることで私たちは救われる。
 救われると言うと、死んでから天国に行けるというだけの意味ではない。この世でも生きるべき命を生きること、自分の命を本当に生きることを意味する。それがイエスが与える命である。イエスはその力を与えるからだ。だから、永遠の生命とはもちろん死んでも永遠にという意味もあるが、終わりのない命というよりも、神聖な命、神の命を意味する。イエスがその命を与える。
 こうしてヨハネが言う羊飼いは絶対に頼れる者であり、だから私たちは自分の命を失うことがない(「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」、28節)。なぜか。それこそが父なる神の意志だから。その権限を神がイエスに与えたから。イエスと父とのあいだには絶対的な関係があるから(「わたしと父とは一つである」、30節)。これが復活祭の意味である。そのために私たちは復活節にこの箇所を読む。
 電気製品を買うと保証書がついている。何年間かは故障しても修理してもらえる。イエスが羊飼いであるとは、絶対的にイエスが救い主であること。だから、イエスに従う人は絶対に後悔しない。

(画像は、クリストフ・ヴァイゲル「よい羊飼い」(羊を守るため狼と戦う羊飼いとしてイエスを描いている)、1708/12年、『聖書図解』)