復活節第5主日(C)

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい(ヨハネ13・34より)

 復活節第5主日に私たちが読むのは、最後の晩餐でのイエスの話の一部。それを読むのに一番ふさわしいのは聖週間だが、私たちは今、復活祭の光の下で、イエスが誰かよくわかった上でその話を読み直す。

1.ヨハネの福音書では最後の晩餐の話は4つの章にわたる長い話。イエスが話したそのままではなく、ヨハネの教会が長い間に黙想しながらいろいろ編集したものだ。だから、この話がどんなジャンルに入るかを理解する必要がある。それは、旧約聖書にもある、太祖たちが亡くなるときの荘厳な話である。旧約聖書では、モーセとかいろんな人が死ぬときに長い話をする。自分の教えのまとめとして、それまで大切にしてきたこと、子供たちに対するアドヴァイスや未来の予言を語る。それは普通の会話ではなく、子供が聞くべき、受け容れるべきことを言い残すものだ。そのことを示しているのは、ヨハネはここで使っている一つの特異な言葉だ。それはギリシア語のテクニアであり、「小さい子供たち」を意味する。ヨハネはこの言葉をこの箇所でだけ使っている。つまり、イエスは父親として、仲間に話をしている。この点が大切だ。ヨハネの福音書では最後の晩餐のイエスの話は彼の教えのまとめとして重要な箇所だ。
2.今日のために教会が選んだ第2朗読の箇所とも関係して、一つの言葉が目立つ。それは「新しい」という言葉である(第2朗読「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」「万物を新しくする」、福音朗読「新しい掟」)。それは、復活祭によって私たちが新しく創造され、死がなく涙も嘆きもない世界に生まれ変わったことを意味する。
3.もう一つ注意すべきなのは、「掟」という言葉だ。ギリシア語ではエントレとある。それは掟だが、義務ではない。愛は押しつけられることではない。どうして掟で愛することができるだろうか。日本語では「道」と言うのがいい。一発で守りなさいと言うのではなく、新しい道をあなたたちに開くという意味だ。使徒言行録でもキリスト者は「この道に従う者」(9・2)と呼ばれている。それはイエスの道だ。彼が押しつける掟というのではなく、彼が実際歩いた道だ。
4.ここで大切な言葉は「(私が愛した)ように」だ。ギリシア語ではカトースとある。旧約聖書にも自分と同じように人を愛するという愛の掟があったが、イエスが愛したようにというところに、この掟の新しさがある。これがわかるためにはイエスの生涯を振り返らなければならない。それは、7の70回赦し、復讐せずに右の頬を打たれたら左の頬を差し出し、マントをとる人に下着を与え、敵のために命さえ捧げ、愛すべき人だけでなく愛することができない罪人をも愛する愛だ。このような愛が基準になる。これが福音書で大切なところだ。イエスの弟子であるとは、祈りでも権力でも力でもなく、オルガニゼーションでも人より勝った生き方でもなく、道徳でもなく、ただイエスが愛したように愛すること。それが言葉だけでなく現実になることが教会の基準だ。
5.愛は命令から、外から来るのでなくて、新しい状態から出る。私たちが生まれ変わり、新しくされたからこそ、その新しい状態からその愛が自然に出てくる。ルールではなく、中から、心から出てくる。教会の中にあるすべての良いこと美しいことは与えられた愛から生まれる。
 カトースには「ように」(基準)という意味だけではなく「から」(理由)という意味もある。だから、イエスが愛した「ように」愛するだけでなく、イエスが愛した「から」愛するのだ。

(画像は、ジーガー・ケーダー「最後の晩餐」、1989年、© Rottenburger Kunstverlag VER SACRUM