三位一体の主日(C)

その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。(ヨハ 16:14

 復活の主日から聖霊降臨までの復活節。一年でもっとも大切なその季節が終わり年間が始まる前に、二つの祭日が入ってくる。それは三位一体とキリストの聖体である。この二つの祭日は神学的というより歴史的な理由で生まれたもので、祝祭や信仰の公言という性格をもっている。だから、今日の三位一体の主日も、キリスト教の歴史に現れた神学的教義的な議論を紹介するためではなく、山に登ってから一旦立ち止まって景色を見てその美しさを楽しむように、または海の前で海を見渡してその広さと空気を味わうように、観想し祈るためにある。 
 私たちキリスト者の生活は起きる時から寝る時まで、出かける時も食前食後も、十字を切るジェスチャーと「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉によって三位一体を祝っている(テルトゥリアヌス)。キリスト教の一神教は、ただの一神教ではない。神は孤独な世界に生きるものではなく、愛の交わりなのだ。三位一体を否定するのは、美しさと輝きとユーモアを神に否定することだとバルトも言う。三位一体は聖書のいろいろな箇所に垣間見られるが、キリストの霊によってはじめて私たちにはっきりとあらわされた神秘である。私たちは今日の日曜日、その交わりの測り知れない美しさに憧れ感謝して賛美する。 
 ABCの三つの年の朗読箇所にはそれぞれのニュアンスがあるが、今年のC年のヨハネによる福音書の箇所では、三位一体の中の聖霊の働きに力点が置かれている。 
 第一に、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)。私たちの目はこの世の美しさと同時に苦しみに捕えられているが、まだ見えない新しい世界を霊が私たちに前もって見せてくれる。私たちにはつぼみだけ見えているが、すでに咲いている薔薇の花を霊が前もって私たちに話してくれる。だから、この世の苦しみにあっても私たちは霊の力によってすでに天国を味わうことができる。私がそれを聞くなら、神の国がすでにこの世にあるような経験が可能になっていく。
 第二に、「[霊は]わたしのものを受けて、あなたがたに告げる」(16:14)。この言葉からも、霊がキリストの霊であり、三位一体の中に分かち合いと交わりがあることがよくわかる。そして、三位一体から愛と真実が溢れ、ちょうど川のように私たちに向かって流れてくるとヨハネはキリストの言葉で私たちに伝える。愛はキリストの霊によって私たちの方に運ばれ、私たちはキリストの霊によって三位一体の中に運ばれ、同じ命を生きる。キリストは人間であり神であるから、そういうコミュニケーションができる橋になる。
 聖書によると、人間は神の似姿として造られた。それは、能力と意志が人間にあるというだけでなく、三位一体のイメージで造られたという意味だ。だから、数年前に話題になったように、ベネディクト16世も、人間のDNAは三位一体だと言った。別の言葉で言えば、たとえ能力がなくても、また口で言わなくても祈りを唱えなくても、人と交わり、人の苦しみを減らし喜びを増やす役割を果たして自分の周りに愛を注ぐなら、それが三位一体を信じることなのだ。「あなたが愛の行ないを見るなら、三位一体を見るvides Trinitatem, si caritatem vides」(アウグスティヌス『三位一体論』第8巻第8章第12節 )。 愛は口先の事柄、哲学的なことではない。逆に無神論者とは神を頭で否定する人ではなく、交わりを断り邪魔して、自分の周りに氷を張る人のことである。
 それで私たちはなぜ、人に愛される時、幸せかがわかる。私たちの中に流れる三位一体的な愛は、人間の本当の召し出しだから。そのために私たちは造られたから。孤独の原因は私たちの中にその愛がないところにある。その三位一体の愛は今キリストの霊によって、教会の秘跡、特に聖体の秘跡によって私たちの中に注がれる。今日は私たちがその神秘を感謝と喜びとともに祝う日曜日。