年間第10主日(C)

主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。(ルカ7:13より)

 ナインの女。すでに夫を失っていたが、今また子どもを失う。言葉で言い表せないほど大きな苦しみ。こんにちもこうした出来事が私たちの耳に届く。
 なぜ苦しみが罪のない弱い人に降りかかるのか。他のさまざまな宗教と違い、聖書には、苦しみがなぜあるかという問いへの答えは見当たらない。聖書は哲学の本ではない。しかし、福音書には、苦しむ人に対するイエスの態度がはっきり出ている。

 

 イエスがさまざまな人の苦しみに出会うとき、聖書ではよく三つの言葉が使われる。1.「憐れに思い」。2.「近づいて」。3.「手を触れ」。この三つの言葉がイエスの態度を表現する。

 

 1.「憐れに思い」――聖書では、「スプランクニゾマイ」、はらわたが痛むという意味の特別な言葉が使われている。イエスは人の涙を見て、憐れみに深く打たれ、その人の傷で自分自身傷つけられ、その痛みを自分の痛みにする。イエスは人の目を深く覗いて、その苦しみと、また希望をも見てとることができるのだ。

 

 2.「近づいて」。人の苦しみを知るにはただ一つの方法しかない。立ち止まって、身を低くして、膝まづいて、近くから見るしかない。子供がするように、また恋人がするように、すぐ近くから相手の顔、相手の目を見、相手の声を聞くしかない。隠された苦しみのある人のそばにいるのが新しい愛の始まりであり、新しい世界の始まりだ。

 

 ルカの福音書の今日の箇所で、苦しんでいるこの女性は、他の人以上に宗教的な人ではない。神に向かって祈るとは何も書かれていない。祈りで何かを頼むことも、イエスの名も口にすることも、イエスを呼び求めることもせず、ただ苦しんでいるだけだ。イエスが打たれたのは彼女の祈りではなく、彼女の苦しみだ。その苦しみこそがイエスにとって祈りである。イエスはその涙に打たれ、その女性に近づく――母親が子供に近づくように。

 

 3.「手を触れ」。深く心を動かされるときイエスは必ず手を伸ばす。感染する重い皮膚病にかかった人であっても、盲人であっても、ナインの若者の棺桶であっても。それは簡単なことではない。イエスが手で触れるのは深い意味があるジェスチャーだ。
 イエスは手で触れて言葉を語る、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。「起きる」とは「復活する」と同じ言葉。さらに、ルカは復活したイエスが「上げられた」と言うが、それも同じ言葉である(復活は、死と命、下と上という二つのイメージで表現される)。棺桶から起き上がるのは復活を意味し、イエスの復活がそこに込められている。「主」という言葉がルカの福音書でこの箇所ではじめて使われている。イエスは命をもたらす主なのだ。

 

 イエスは母親とその愛情に子供を返し、人々は大預言者が現れたと賛美する。イエスは、私たちの世界の至るところにあるナインの村に入り苦しんでいる人のそばに現れる憐みの預言者であることをルカは宣言する。

 

 隣人とは誰かと問われたとき、苦しんでいる人のそばに立ち止まって手を伸ばす人がその人だとイエスは言う。ぼんやりした宗教者、神殿のことを心配して人に気がつかない宗教者より、手を伸ばす人が。夜が一番星で始まるように、イエスの新しい世界はよきサマリア人であるイエスの業で始まる。

 

 神は私たちに対してもその奇跡を行う。奇跡と言っても、苦しみから一時的に立ち直る奇跡ではない。苦しんでいる人に気づき、その人のそばに立ち止まって、その苦しみを自分に引き受ける恵みを神は与えてくださるのだ。

画像は、17世紀フランス古典主義ウスターシュ・ル・シュウールの弟子による「やもめの息子の復活」。