年間第11主日(C)

この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。(ルカ7:47より)

 イエスの憐れみの書記と呼ばれる福音記者ルカ。イエスと罪人の出会いの物語に惹かれる彼は第7章で、非常に魅力的なエピソードを物語る。それはルカだけが伝える物語である。普通、ルカはマルコ福音書を使って、その一つ一つのエピソードに独自の視点を付け加えるが、この物語はきっとルカがパウロといっしょにあちこち布教に歩き回っていた時にどこかの地方で聞いたものだろう。それはもてなしの物語であるが、その中には、入れ子の箱のように、一つの短いたとえ話も入れられている。その宝物を取り出してもいいし、入れ物もまた美しい。

 その日は安息日だったかもしれない。当時、会堂での説教の後、説教をした人を金持ちなどが家に招いて交流するという習慣があったが、ファリサイ派シモンもそうだったのだろうか。彼はイエスに関心を抱いてはいるだろうが、イエスが自分の家に来てもそんなに感激はしない。イエスの話に感動したからではなく、彼についてもっと調べるために招いたのだろう。イエスが本物の預言者かどうか知りたかったのではないか。当時の習慣は、そんな時は、男性ばかりで中庭で食事をしながら、神学的な質問をしていた。ただ、ドアは開けたままで、通りかかる人が覗くこともできた。イエスが家に入ったことは名誉にもなっただろう。

 そこに突然、一人の女性が突風のように入ってきて、イエスに向かう。罪人の女とルカ自身も言う。涙、香油(マッサージ用)、接吻など、明らかに大げさな振る舞いだ。それを受け入れるイエスはシモンにとってスキャンダルとなる。彼が使う言葉「触れている」はギリシア語ではエロス的なニュアンスもある。だから、イエスが預言者であることにシモンは疑問を抱く。

 さて、イエスはどうするか。彼はいつものように、ファリサイ派のシモンにも愛情を示し、教育的に説明しようとする。そして、短いたとえ話を使う。500デナリオンは労働者の2年間の賃金、50デナリオンは2ヶ月ほどの賃金に当たるから、大きな違いである。

 福音書には具体的に書かれていないが、このたとえ話を聞いて私たちが想像するのは、この女性が大きな罪を赦されたということ。だから、彼女の振る舞いは懺悔というよりも、罪を赦された感謝であり、新しい愛を発見した喜びである。それに対して、シモンは罪がないかもしれないが、道徳的に立派な人がもつ鈍感さ、厳しさ、残酷さという病気にかかっている。当時も今日も、宗教を掟の連続と理解する人はこの病気にかかっている。彼は自分が正しいと考えて、すべてを自分を基準として判断する。そして、彼女が救われて喜んでいるということに無感動である――放蕩息子のたとえ話に出て来る兄のように。

 そこでイエスは、この二人の迎え方を徹底的に比較する。イエスに赦された罪人は、大袈裟なほどの愛情をイエスに返す。大きな罪を犯した人は、大きな聖人になるのだ。

 この物語は放蕩息子のたとえ話と同じように、結末がわからない。罪人の女が、後に出てくる、使徒たちといっしょにいる婦人たちの一人になったかどうかわからない。頑固なシモンたちがイエスを受け容れるようになったかどうかもわからない。

 しかし、ルカがこの物語で私たちに言いたいのは、まず第一に、イエスが本当の預言者であり、彼によって、父である神の憐れみが私たちに知らされたことである。第二に、この女性の態度が、イエスに従う人の模範であることである。つまり、1.喜びの涙(悲しみの涙ではなく)。自分の罪を認めるが、自分に絶望するのではなく、罪を手放して、自分が生かされることを知った喜びの涙。2.イエスの足もとにひざまずくこと。つまり、イエスを拝むこと。3.髪を使ってイエスの足を拭うこと。つまり、罪の道具であったものが神を受け容れる道具となる。パパ様も最近、司祭のための黙想会で、私たちの罪は神の憐れみの受け皿だと言った。本当のキリストの弟子は罪を犯していない人ではなく、赦された人であり、赦されたからこそ人を赦すことができる、と。

  イエスを本当に知ったしるしは、自分にとって一番大切なものをすべてイエスに捧げ、皆の前でイエスを公に告白することである。彼女にとってイエスの足への接吻がそうだった。その結果は、赦しと癒しと平和である。

画像は、アンドレイ・ミロノフ「キリストと罪深い女」、2011年、Wikimedia Commons