年間第12主日(C)

人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。(ルカによる福音書9・22)

 今日の箇所の冒頭でルカは、祈っているイエスの姿を伝える。みんながいる中でイエスは一人で祈っていたと。ルカは他の福音記者以上に祈るイエスについて伝える。マルコ福音書では3回だが、ルカの福音書には7回祈るイエスが出て来る。それはいつも大切な時だ。つまり、ルカはただ、祈りは大切だ、イエスが祈っていたから私たちも祈りましょうとだけ言いたいのではなく、祈りの後で起こることを強調したいのだ(たとえば、洗礼など)。祈りとは父とのあいだに完全な一致を体験することだから、ここでルカが言いたいのは、イエスがこれから言う言葉が父なる神からの言葉であるということ。年間の日曜日ではあるが、今日のイエスの言葉は重大な啓示なのだ。さらに、次の日曜日の福音書には、イエスがエルサレムに向かう決意を固めるということが出ている。つまり、今日の箇所は、イエスの公生活の中で新しい時期が始まるという重要な時なのだ。
 今日の福音は、大きく言えば二つに分かれている。一つは、イエスとはだれか。それはこれまでの結論でもある。もう一つは、イエスに従うとはどういうことか。これについては、次の日曜日の箇所で具体的に述べられる。
 イエスは弟子たちに質問する、「群衆はわたしのことを何者だと言っているか」。そう質問するのは、彼が自分の評判を気にかけているからではなく、弟子たちを教育したいからである。それはまた、私たちへの質問でもある。私たちにとってイエスは何者か。私たちは今日何を求めてミサに来たのか。
 イエスの質問に対して、さまざまな答えが返ってくる。エリア、洗礼者ヨハネ、生き返った預言者など、みんな有名な人物だが、メシアではなく、メシアを準備する人物にすぎない。つまり、一般の人たちは、イエスをまだ理解せず、メシアと認めていないのだ。なぜか。彼らがもつメシアのイメージが間違っているから。結局、当時のユダヤ人たちは、敵に打ち勝ち、ユダヤ民族を解放し、正義を実現する、権力ある者というメシアのイメージをもっていた。彼らは、自分たちの要求を満たすメシアを待っていたのだ。それは、日本語で言えば、「苦しい時の神頼み」であり、病気の時など自分の力が足りない時に頼る神である。それは本当の神ではなく、自分たちの権力や富のための神である。
 次にイエスは弟子たち自身に質問する、3年間私といっしょにいていろいろなことを見たあなたたちはどう思うかと。この質問も弟子たちを教育するためである。そのとき、ペトロがみんなを代表して答える、あなたはメシアと。これは外面的には正しい。しかし、ペトロも最終的には、一般の人たちと同じように、権力や富を求めるメンテリティをもっている。そして、敵に対して権力をふるい王になるために来るという間違ったメシアのイメージをもっている。私たちが公教要理を習って口先で正しいことを言っても中身を理解しないなら、それと同じことだ。または、ミサに参加しても、意味を考えないままに、祈りを繰り返すなら、それと同じことだ。
 そこでイエスは弟子たちを戒める。ここでルカが使っている言葉はエピティマウであり、悪魔を追い払う言葉である。権力や富のためにメシアを求める考え方は神からではなく、悪魔から来るからだ。また、「だれにも話さないように命じ」るのは、秘密にするためではなく、弟子たちが理解していないからである。
 そして、今日のポイントだが、イエスは弟子たちがわからない大切なことを啓示する。「人の子」という表現は新約聖書で90回ほど使われているが、完全な基準になる生き方をしている人、模範的人間、本当の人間という意味である。「人の子」という表現でイエスは、自分がそのような基準であることを宣言する。「多くの苦しみを受け」――これは苦しみの大切さを説いているわけではない。金、権力、常識などを基準とする「長老、祭司長、律法学者」から、そのような世間的(そして非人間的)なメンタリティーとはまったく違うメンタリティーが反発を受けるのは当然だということ。
 そして、イエスは自分の後に歩む人についても触れる。「自分を捨てて」。イエスの後に歩む人は、権力を求めるのではなく、奉仕する人である。つまり、世間的な考え方を捨てる人である。だから、イエスの弟子になるのは、それまでの考え方の延長ではない。例えば、信者になる人がいろいろ勉強しても、洗礼を受けてミサに行っても、祈りをしても、さまざまな行事に参加しても、メンタリティーが同じままでは、「自分を捨てて」イエスの後に歩んでいるとは言えない。水で洗礼を受けるだけ、口で祈りを唱えるだけではなく、生活の中で起こるすべてのことについて、何が大切で何が大切でないか、キリストを基準として判断しなければ、キリストを信じているとは言えない。
 「日々」。例えば殉教者など特別な時に、十字架を選ぶということもある。しかし、大きな出来事だけではなく、目立たない日々の生活の中で、忍耐や対話、再出発や非暴力によって十字架を選ぶことがここで言われている。
 今日のイエスの言葉は、当時の弟子たちにとっても、こんにちの私たちにとってもショッキングである。私たちは、褒められたり尊敬されたり、有名になったり、えらくなることを自然に求める。私たちはみんな神になりたいのだ。しかし、イエスが私たちに手渡すレシピは正反対だ。私たちは主人になるためではなく、奉仕者になるための召し出しを受けている。宣伝に踊らされてカメラの前で生活するためじゃなく、却って隠れたところで働くのがキリスト者の召し出しである。
 このような考えから、いろいろなことを見直すことができるだろう。たとえば治療不可能な病気にかかっている時、人から見捨てられる時、または自分の弱さを感じる時――そんな時こそ、隠れたところで奉仕者になる大切な機会である。なぜか。それがイエスの道だったから。そして、イエスは言う、私のために命を捨てた人は命を見つけると。

画像は、ディエゴ・ベラスケス「キリストの磔刑」、1632年、プラド美術館。