年間第13主日(C)

あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。(ルカによる福音書9・57)

 よく知られているように、ルカはマルコ福音書をもとにして、パウロとの旅などで自分で調べて確かめたものを自分の福音書の中に入れる。今日の箇所から始まる部分(9章から19章まで)はそうしたルカ独特のものがまとめられており、ルカ福音書では一番ルカらしい部分である。 
 ルカは一方で神学者だ。イエスのいろんな出来事を記録するだけでなく、旧約聖書との関連など出来事の深い意味を私たちに伝えたい。もう一方で、ルカは宣教師だ。自身ギリシア人であり、ユダヤ人でない人たちに向かってイエスを知らせたい。そのために、彼らが理解しやすい様式を使う。ギリシア神話を通じて神々が人間の世界に来ることに聞き慣れていた人たちに向かって、ルカはイエスがエルサレムに向かう一つの長い旅を構成する。その旅ではいろいろな出来事が起こり、イエスの有名なたとえ話や有名なジェスチャーも出て来る。それはエルサレムで殺されるイエスの遺言でもある。今日はその大切な旅の始まりだ。 
 はじめに、イエスの決心がある。ルカは、旧約聖書を使って、イエスは顔を硬く(エゼキエル3・8)したと表現する。この旅は十字架で終わる。 
 先週の日曜日はイエスは誰かがテーマだったが、次に出て来るテーマは、イエスの弟子は一体どういう者かということ。 
 結論を先に言うと、イエスの弟子とは、イエスとともに歩む人だ。ルカはギリシア語のsyn(ともに)という接頭語を好んで使う。イエスの弟子とは、哲学者の教えとか、前のファリサイ派シモンや放蕩息子の兄のように厳しい掟を罪人に押し付けるのではなく、イエスを規準にして生きる人だ。掟は決まったことだが、イエスの弟子はイエスとともに旅をすることで、いろいろなことがわかって成長していく。
 旅立ちの時に目立つのは、ルカが不思議なことに、サマリア人に対していつも寛大だということ。サマリア人はユダヤ人からは異端者であり、いろいろ問題であったが、ルカは、善きサマリア人のたとえ話や、らい病を癒されたサマリア人からわかるようにサマリア人を軽蔑しない。
 今日の箇所で弟子たちはイエスの訪問を準備するためにサマリアの村に行くが、きっとイエスの旅の本当の意味がわかっていない。弟子たちはイエスがエルサレムに行くのは神の国の王になるためとまだ思っていた。きっとそう宣伝して、反発を受けたのだろう。ルカは、イエスが最初にナザレで理解されなかったのと同じように、エルサレムへの旅でも反発を受けたことを伝える。ただ大切なのは、イエスの態度が弟子たちと違っていること。弟子たちは暴力を振るおうとするが、イエスにはそれがない。イエスは、前にファリサイ派シモンとの口論でもそうだったように、愛情を込めた柔和な形で自分の道を開始する。ベネディクト16世も言うように、キリストは憧れで人を引きつける。キリスト教の布教は地獄で脅すのではなく、人を誘うのだ。
 次に続くのは、三人の弟子の小さな例だ。 
 1.ある人がどこへでもイエスに従うと言う。「枕する所もない」とイエスは答えるが、実際にイエスにはいろいろな友だちがいて、泊まるところ、世話を受けるところがあった。この言葉でイエスが示したいのは弟子の心だ。イエスの弟子は、固いものではなく、新しさを求める。自分を変えない人、前に向かって進まない人はイエスにふさわしくない。 
2.旧約では、父を葬るのは大切で、最高の義務だった。しかし、イエスが言うのは、今までの生活に祈りとか行事を足すというだけではなく、心を根本的に変えることをめざさないといけないということ。 
3.「後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。神の国は、人間の作った法律、掟、イデオロギーではなく、神から来る恵みを中心とするのだ。

画像は、ジェームズ・ティソ「イエスと弟子たちの語り合い」、1886-1894年、ブルックリン美術館。