年間第16主日(C)

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカ 10:41-42)

 今日の箇所はエルサレムへのイエスの旅の終着点近く、ベタニアでの小さなエピソードである。十字架上で殺される時は迫っており、イエスは多くの人に向かって話して宣教するより、自分の弟子の最後の教育をしようとしていた。
 マリアとマルタのエピソードは有名で、さまざまな解釈の歴史があるが、詳細な事実はわからない。昼の出来事か晩の出来事か、弟子は12人か72人かわからない。とにかく大勢の人が突然マルタの家に到着する。旅に疲れ、足も汚れていただろう。玄関も混雑しただろう。もてなすのはたいへんな仕事だ。そのもてなしをするマルタに私たちは同情してしまう。マルタのような人はこんにちも教会の中にいて、彼らが時間やお金や労力を費やして協力するのは、司祭にとっても信者にとってもありがたいことだ。 
 イエス自身も福音書の他の箇所にある通り、マルタのような人たちから助けられた。彼らは財産をイエスに差し出したし、衣服の洗濯などでも協力したことだろう。パウロもそのような人たちに対する感謝の言葉を手紙の最後によく書いている。彼らはさまざまな形でパウロの宣教を手伝った。そのような協力はありがたいことには違いない。 
 ただ、今日のエピソードには、予期しない逆転がある。イエスはマルタに対して厳しい言葉を言うのだ。イエスのその言葉を読んで和らげようと努力する解釈者もいる。イエスはそんなことを言いたくなかったと。しかし、そうではない。ルカがこのエピソードを伝えるのは、ルカ自身にとっても衝撃的な言葉がその中にあったからだ。 
 マルタはイエスに褒めてもらえると思っていたのに、返ってきたのは冷水のような不親切な言葉だった。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。言い換えると、あなたのものの考え方は間違っているということだ。「思い悩む」という訳はおもしろい。考え方に何か問題があって、その考え方からあなたは苦労しているということ。つまり、イエスの診断では、外面的な態度の裏に心の病気があり、大きな変化が必要だということ。「マリアは良い方を選んだ」。つまり、マルタは悪い方を選んだということ。ルカはマルタの反応について何も書いていないが、マルタは当然ショックを受けただろう。 
 第一朗読でアブラハムは一生懸命マルタと同じことをして、最後は神から報われ、子どもが奇跡的に生まれるという知らせまで受ける。マルタのどこが問題だったのか。 
 この箇所を理解するためには識別が必要だ。マルタは、忙しさのためか、性格のためか、大きな勘違いをしてしまった――中心はイエスではなく、自分が中心だと。彼女は自分がもてなすことが大切だと思い、イエスが話をしているのに、その言葉を聞こうとはせず、イエスが誰かを知ろうともしない。つまり、自分がいい恰好をし自分に自信をつけるためにイエスの訪問を使おうとしているのだ。彼女は神が家を訪れたのに、自分のことで精一杯でわからない。イエスの周りをうろうろしているが、イエスといっしょにいる喜び、目の前に神が現れた喜びを感じていない。私たちのこんにちの生活に置き換えれば、貧しい人のためなど福祉活動を一生懸命やりはしても、自分は金持ちだからできると自慢したり、人を助ける自分はいい人だという意識をもったり、いいことをする自分を他人に見せたり、活動が上手だと褒めてもらおうとするようなものだ。
 結局、マルタは自分が神様の訪れを必要としていることすら気づかなかった。もてなすのは実際は自分ではなくて、イエスがその現存と言葉で彼女をもてなすのだと気づかなかった。イエス自身が神の言葉であることにマルタは気づいていない。その結果、ルカが示唆するように、彼女は不満で、疲れ、他の人の振る舞いでいらいらし、ちょっとノイローゼのようで、神であるイエスを叱るほどだ。弟子たちも舟の中で嵐に遭った時、イエスを叱る、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」(マルコ4・28)。彼らは神よりも自分の方が必要なことをわかっていると思っているのだ。
 はじめに述べたように、イエスは、自分の弟子はどうあるべきかを旅の中で教えていた。このエピソードでは、マリアが本当の弟子の姿を示している。「主の足もとに座って」。これが典型的な弟子の態度だ。「その話[=言葉]に聞き入っていた」。本当の弟子とは、たくさんの祈りをしたり善い行いに努める人ではなくて、まず第一に神の言葉に耳を傾ける人だ。神の言葉に耳を傾けるなら、神によってすべてが新しく創造される。そこから、命や喜び、聖霊のやさしさや愛が生まれる――ちょうどルカが福音書の別のページでイエスの母マリアについて書いているように。
 ルカがこのページによってとりあげるのは、教会の歴史の中でさまざまに議論されてきたように観想生活と活動生活のどちらがすぐれているかという問題ではなく、神の言葉を聞くことがどんな生活であれ弟子の生活の土台であるということだ。神の言葉を聞くことはどんな活動にも観想にも先になければならない。観想生活も「自力」ではなく、神の言葉を聞いて神から呼び出されることから始まるのだ。だから、マリアは、観想生活者であれ活動生活者であれ宣教師であれ、あらゆる信者の模範である。神の言葉を糧として私たちはキリスト者として成長する、たとえ罪人であっても。悪霊に取りつかれたゲラサの人が癒されたときイエスの足もとに座っていた(ルカ8・35)。だから癒された後の一番最初の段階はイエスの足もとに座ってその言葉を聞くことである。神の言葉を聞くことはキリスト者のあらゆる生活の土台なのだ。 
 活動生活も観想生活もいずれ終わる。年をとる時、病気になる時、続けることができない。けれども、神の言葉はキリスト者の土台として残る。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40・8)。

画像は、フラ・アンジェリコ「ゲッセマネの園のキリスト」、1450年、サン・マルコ修道院