年間第18主日(C)

人の命は財産によってどうすることもできない(ルカ12:15より)

 エルサレムに向かって少しずつ歩むイエスの長い旅。その最後の段階は、イエスがその独特の考え方を私たちに言い遺そうとする大切な時期だ。ほとんどは使徒たちに向かって語られるが、今日の箇所では皆に向かって語られる。 
 聖書を何度も読んでいると慣れてしまって、イエスの厳しい言葉も見逃しがちだが、今日のようにその厳しさがはっきり出て来る箇所もある。この箇所では特に二つの問題が感じられる。 
 1.イエスの話の途中で群衆の一人が言う。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。遺産の分配は当時もこんにちも難しい。兄弟喧嘩の原因にもなり、言葉を交わさない状態にさえなったりする。昔のヨーロッパもそうだが、当時は女性には結婚の持参金があったが、遺産相続は男性だけだった。そして土地は分けると価値がなくなるから、大体長男が土地を相続し、他の兄弟は金銭を相続する形だった。きっとその時に何かの問題があったのだろう。はっきりとは書かれていないが、おそらくその人は次男で、長男が遺産を全部自分のものにしようとしたのだろう。当時もこんにちもそんな場合、私たちは誰かに相談する。こんにちなら保証人や弁護士だが、当時はその村の長老や教師や宗教家など皆から尊敬され知恵のある人物に相談した。ヨーロッパでも昔は、司祭に相談するという習慣があった。だから、その人はイエスが話した時に、単純に自分の問題をイエスにぶつけたのだろう。尊敬される人物にそのような相談をするのは当時の習慣としては当たり前だった。 
 驚かされるのはイエスの返答だ。彼は怒っているようだ。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」。私はまったく違う目的のために来た、と言いたいようだ。ここには厳しさが感じられる。ルカはここで何を伝えたいのか。 
2.もう一つの問題は、イエスのたとえ話の中にある。愚かな金持ちのたとえ話だ。ふつうに考えると、いい人だ。別に悪いことをせず、休まず一生懸命働いて、自分の畑の収穫のために働いてきたのだ。ある年は幸いに作物がたくさんできて、どうしたらいいかと考えて、蔵を壊してもっと大きいのを建てようと考える。こんにちに置き換えるなら、定年になって、それまでに貯めた金を使って楽しもうということだ。けれども、そこに「愚か」というイエスの厳しい言葉がある。イエスはなぜこの言葉を使ったのか。 
 この二つの問題について考えたい。 
1.イエスは質問に答える前にいつでも、自分が来た目的をはっきりさせる。ここでイエスが言いたいのは、こういう問題はあなたたちが自分で解決すべき問題だが、それを解決するためにあなたたちが忘れていることが一つあり、私はそれを思い出させるために来たということ。その一つのこととは「貪欲」だ。人間は金や名誉や権力に対して不完全な態度をとっている。イエスはいろいろなところでこのテーマに触れている。ヨハネの福音書にも「イエス御自身は彼らを信用されなかった。…何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(2・24、25)とあるが、イエスは私たちの中にある基本的な弱さを知っていて、それに注目させたい。なぜか。それを解決しない限り、他の問題も解決することができないから。 
2.たとえ話で神は「今夜、お前の命は取り上げられる」と言う。これは神の意地悪ではない。イエスの神は決して意地悪ではない。一生懸命働いた人を死なせるのはイエスの神ではない。イエスの神は罪びとさえ死なせない。イエスの神があわれみの神であることを私たちは十分に知っている。ここでイエスが言いたい大切なことは、私たちの人生が不安定な土台の上に立っているということ。それはもちろん、わざわざ神から言われなくても、私たちが目を開けばわかることだ。例えば、突然ガンを宣告され、余命を告げられる。あるいは災害や事故や戦争、名誉棄損や悪評など。私たちの人生は不安定な土台の上に立っていることをイエスは私たちに強く教えたい。
 人生の無常は仏教の根本的なテーマでもある。たとえば道元の有名な『正法眼蔵』では違ったたとえで同じテーマが表現されている。道元は人間を三頭の馬にたとえる。第一の馬は、鞭の音(死の知らせ)を遠くに聞くと、すぐ走り出す。第二の馬は、鞭の音を近くに聞いてはじめて走り出す。第三の一番鈍感な馬は、体に鞭を受けてはじめて走り出す。イエスのたとえ話にそっくりだ。私たちの財産、関係、名誉は儚いものだ。命でさえそうだ。いくら計画しても、私たちの寿命は短い。私たちの人生は不安定な土台に立っていることを知るべきだ。それを忘れてしまうとたいへんな間違いになる。

 

 では、どうすればいいか。今日の福音のポイントはそこにある。たとえ話の最後にイエスは言う、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。つまり、イエスによると、二つの世界がある。人間の世界と神の世界だ。そして、人間の世界と神の世界のあいだには税関があって、金をもって通過することができない。どういうことか。 
 もう一度たとえ話に戻ろう。その金持ちはなぜ愚かだったか。彼は孤独な人だ。この人の世界の中には自分以外に誰もいない。妻も子どもも友人も出て来ない。財産のためにきっと大勢の人たちを使っていたが、彼の考えの中にはぜんぜん出てこない。利己主義的な人で、自分のためにだけ働き富を積み大きな蔵を立てて自分の未来の幸せだけを望んでいる。これがイエスの言う愚かさだ。
 イエスは金持ちが嫌いではない。彼の生活を見れば、金持ちの人たちから何回も助けてもらい、何回も彼らの家に泊めてもらっている。だから、イエスは人が嫌いなのではなく、私たちの幸せのために大切なことを教えているのだ。富は神からのものだ。金があったり、才能があったり、権力があったり、社会の中で役割があったりするのはすべて神の賜物だ。ただそれは私たちのためではなく、人と分かち合うためのものだ。分かち合わないと、無駄に生きることになる。 
 自分のもっているものをどうしたらいいか。今日の日曜日、またはこの一週間考えてみたい。金であれ才能であれ時間であれ家であれ環境であれ自分のもっているものをどのように人のために使うか。どのように自分の生活を他人と分かち合うか。イエスは福音書のいろんなところでこのテーマに触れている。たとえば寄付をするときに「ラッパを吹き鳴らしてはならない」、または「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」などなど。そこに私たちの永遠の生命がかかっている。 
 私たちは裸で生まれて裸で死ぬ。この世で積んだものを天国にもっていくことはできないが、人と分かち合ったことは天国に入ることができる。イエスの一つのたとえ話にあるように、私たちが助けた貧しい人たちが天国で私たちを迎えに来て、父なる神に引き合わせ、私たちが彼らを助けたことを伝える。このことを大切にして一週間を過ごしたい。