年間第19主日(C)

ともし火をともしていなさい。(ルカ12・35)

 今日の箇所は、エルサレムへのイエスの旅の続きだ。ただ、この箇所で、ルカは、その旅にもう一つの旅を重ねる。それはイエスの小さな群れの旅だ。イエスが死んで復活し昇天して見えなくなった教会の時代を生きるルカ。イエスの弟子たちはすでに迫害の苦しみを生きていた。ルカは、イエスの言葉にひっかけて、そんな彼らに向かって言うのだ、信頼しなさい、イエスは必ず帰って来る、と。 
 「真夜中に帰っても、夜明けに帰っても」。夜という時には人によってさまざまな意味がある。夜はすべてを忘れて体を休める時であったり、楽しみ喜ぶ時であったり。危険を避けて家に閉じこもる時であったり、過去を振り返り祈る時であったり。そして、初代キリスト教には、復活祭の夜にイエスが戻るという信仰があり、信者たちはその夜を徹夜して過ごした。当初は再臨はすぐに起こると考えられていたが、イエスがなかなか戻らないことが少しずつわかってきた。その再臨を待つあいだ、どう生きたらよいのか。このような終末論のテーマはルカの福音書だけではなく新約聖書にさまざまな形で出て来る。 
 終末と言うと、私たちはすぐに審判を連想する。死んでから、天国行きか地獄行きかを決められると。しかし、キリストの再臨の中心的な意味はそうではない。それは愛するキリストが戻ることであり、喜びの再会であり、苦しみのなか忠実を守った人たちを愛情深く迎え入れる時なのだ。彼らは幸せだとイエスは言う。「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。花婿が夜に戻る愛の喜びを歌う雅歌の一節が思い出される。 終末はキリスト者の希望の源なのだ。
 旧約聖書や新約聖書の別の箇所からヒントを得たいくつかのイメージを使ってルカは、イエスをどう待つべきかを教える。たとえば、「腰に帯を締め」。腰に帯を締めて、裾をもちあげるのは旅の格好だ。つまり、キリストの再臨を信頼する人にとって、生活は同じ活動の繰り返しではなく、日々新しい場所に向かって旅に出ることなのだ。イエスが彼らを新しい場所に案内する。第二の朗読のアブラハムは、行き先を知らないままに、ただ神の言葉を信じて旅立った信仰の模範だ。
 もう一つは「泥棒」のたとえ。「家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう」。聖書の中ではこの箇所でだけ、イエスがその言葉を口にしているが、ペトロもパウロも手紙の中でこの言葉を使っている(1テサロニケ5・2「盗人は夜やってくるように主の日が来る」、2ペトロ3・10「主の日は盗人のようにやってきます」)。「10人のおとめ」のたとえにも似たところがある。ただし、泥棒という言葉については勘違いしないように注意すべきだ。この言葉にはネガティブなイメージがあるが、しかしこれはイエスの喜ばしい訪れを見逃さないようにという注意だ。イエスのメッセージは地獄に行かないためではなくて、天国に行くためなのだ。 
 もう一つは「管理人」。ルカが使う言葉は、エコノモスで、責任者とか係という意味だ。教会の中で責任者とされた人たちは、間違った態度をとる危険がある。目立つためとかプライドのためとかいろいろな理由で、自分の役割を勘違いする危険がある。イエスが頼むように奉仕するのではなく、独裁者になる危険もある。そして、人を利用したり、人から預かった財産を使いこんだり、人を厳しく扱う危険がある。それはルカの当時に実際起こっていたことで、こんにちも起こりうることだ。そこで、ルカはこの箇所で、特に大きな責任のある人たちに言葉を向ける。ルカが言うのは、注意しなさい、いずれキリストは戻り、あなたたちを厳しく審判し、「異邦人のように扱う(不忠実な者たちと同じ目に遭わせる)」と。「異邦人のように扱う」とは、権力やキャリアなどを自分のために求めたことは、キリストにとっては無であり、彼に無視されるということ(ルカ9・46-50も同じ)。キリストから受け入れられるのは人のために果たした役割だけ。彼が自分の弟子に果たしてほしいのは、小さな群れの世話、愛とやさしさ、慰め、赦し、指導、忍耐、謙遜といったものなのだ。 
 最後にもっと厳しい言葉がある――「ひどく鞭打たれる」。もちろん、神は誰も審判しない。この表現でルカが知らせたいのは、このような人たちの大きな責任だ。
 私たちはイエスが戻ることを信じてイエスを待ちながら生きるべきだ。別の言葉で言えば希望をもって生きるべきだ。教皇フランシスコが言った(2015年12月14日、2016年3月17日)ように、希望とは、私たちが神様からいただいた大きな徳である。希望によって私たちは、今の問題や苦しみ、困難、そして私たちの罪の先を見ることができる。私たちは希望の男女でなければならない。また、希望は控えめだが強力な徳であって、私たちキリスト者の生活の水面下に流れ、私たちを支える。困難に負けないで、いつの日か神の美しい顔を見ることができるように力を与えてくれる。

画像は、ウィリアム・ホルマン・ハント「世の光」、1851-1856年、マンチェスター市立美術館。イエスが戸を叩く絵画は多数あるが、この絵はそのもとになったものである。