年間第29主日(C)

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。(ルカ18・1)

 エルサレムに向かうイエスの旅の最後の段階、十字架に近づいてきているその時、ルカはもう一度、祈りについてのカテケーシスを教える。よく知られているように、ルカは特別にイエスの祈りに注目する福音記者だ。いろいろな箇所で祈っているイエスの姿を報告している。公生活の最初から十字架上での最後の瞬間まで、特別な出来事に際しての祈りをルカは記している。ルカにとって、祈りは、イエスとは誰かを示すためにも、イエスの弟子はどうあるべきかを教えるためにも非常に大切なポイントなのだ。 
 先々週の主日の第一朗読のハバククは、すべてがうまく行かず、祈っていた。そのような祈りは詩編にもある。たとえば35章22節に「立ち上がってわたしを助けてください」とある。教会の殉教と深い関係がある黙示録もそうだ。例えば6章10節に「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」とある。ルカにとっても、祈りはロマンチックな感情や美しい言葉ではなく、イエスの十字架や苦しみの体験と深い関係がある。 
 第一朗読にある、手を挙げたモーセの姿は、神と人とを仲介する司祭がとる典型的な祈りの仕草だ。それは海に沈む人が助けを求める最後の姿であって、神に向かって助けを求めるキリスト者の姿を表現している。私たちの力は神だけにあるのだ。 
 ルカが福音書を書いたのは80年ごろ。当時、ドミチアヌス皇帝が自分を神として拝むことを命令したのに対して、キリスト者がそれを拒んだことから、キリスト者に対する激しい迫害が始まるところだった。そのような状況にあって、なぜ神が答えてくれないか、なぜ神が助けてくれないか、神が沈黙するこの荒みと悲しみの時期をどう生きたらいいか、ということが問題になった。ルカが今日の箇所を編集したとき、キリスト者のそのような問題が背景にあった。 
 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」。裁判官と言うと自然に神を連想する。しかし、言うまでもなく、このたとえ話の裁判官は神を意味しているのではない。むしろ、迫害されるキリスト者の苦しみに対して無関心な世間のシンボルだ。 
 「その町に一人のやもめがいて」。やもめ、未亡人とは、夫、つまり自分を守ってくれる人を失った女性のこと。それはルカにとっては、女性に限らず、花婿キリストを失い、キリストのために迫害や災いに遭っているすべての正しい人、つまり教会のシンボルだ。
 「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」。祈りと言っても、たくさんの言葉を並べるという意味ではない。イエス自身、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない」と言っているし、旧約聖書でも同様のことが言われている。「気を落とさず」「絶えず」という表現が意味しているのは、神との内面的な関係のことだ。言葉を重ねることではなく、周りの事情を神の目で見ること、物事についてイエスのような価値観をもつことが祈りなのだ。だから、祈りは息にたとえられる。息は、意識しなくても、命と深い関係があるからだ。イエスの息、聖霊に生かされることが祈りなのだ。だから、外面的な行為ではなく内面的な動機が大切で、時々たまたま善い行ないをするだけではなく、たとえ1日に7回罪を犯したとしても全生活が神に向かっていること、キリストのように生きようとすることが祈りなのだ。
 祈りによって私たちはまた、神の時を見分けること、また世間に対して神のように忍耐し神の国を待つことを学ぶことができる。マタイ福音書の毒麦のたとえのように、苦しみの中から善が成長するかもしれないのだ。さらに祈りは、間違う人に対して憐れみをもつために力になる。自分の間違いに対する憐れみから、他人の間違いに対する憐れみをもつことができるのだ。最後に、祈りとは、何かの特別な行事やイベントではなく、毎日の生活の中に働く生きた信仰のことだ。生きた信仰は、神の愛の深い体験から、いただいた愛や赦しを人に注ぐことができる。 
 ルカの時代のように、こんにちも教会はさまざまな国でさまざまな形で迫害されている。それでも、奪われた花婿キリストの再来を待っているか、「主イエスよ、来てください」(黙22・20)と祈っているかと今日の箇所は私たちの信仰に問いかけている。

画像は、ニコラース・マース「年老いた女の祈り」、1656年頃、アムステルダム国立美術館所蔵。