年間第33主日(C)

「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(ルカ21・6)

 今日のルカ福音書の箇所は一見したところ世の終わりをテーマとしている。世の終わりに天と地がどうなるかは当時もこんにちも人々が関心をもつテーマであり、私たちもいろいろなきっかけからこの箇所をそのような終末論として読んでしまいがちだ。しかし、今日の箇所は終末についての好奇心を満たすための箇所ではない。イエスはそのような好奇心に何も答えていない。ルカが私たちに伝えるイエスの言葉は、よく観察すると、私たちキリスト者がどのような心で生きるべきかを語っている。イエスは歴史の中のさまざまな問題を予期していた。彼は自分自身が十字架死に向かって歩んでいたように、自分の弟子の人生がさまざまな苦難や危険に巻き込まれることを予期していた。イエスは、どの時代のキリスト者にも、その時代のしるしを読み取るための新しい目を下さるのだ。
 今日の箇所はイエスの最後の一週間の出来事。イエスは、いつものように神殿に行く。神殿は当時はまだ建設中であり、その現場には裁断された立派な石などさまざまな材料があった。ある人たちがその美しい石や飾りについて話したとき、それが破壊されると言ったイエスはきっと自分の体である神殿のことも考えていたことだろう。つまり、十字架上での自分の死について考えていただろう。しかし、ルカがイエスのこのような言葉を私たちに伝えるとき、マタイとは違って、ストーリーを伝えるだけではなく、別のメッセージを伝えようとしている。ルカは、災いの預言より、災いを越えるための希望と喜びの言葉を信者に伝え信者を力づけようとするのだ。ルカは迫害を受けている当時の信者に向かって話しているから、その言葉はそのときだけではなく、それぞれの時代に苦しみを経験している信者にとって大切な遺産だ。
 この箇所にはいくつかのテーマがある。
1.「「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」。これは信仰についての注意だ。最大の危険はさまざまな声の中からキリストの声を聞き分けられないことにある。
2.「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」。ここでイエスは何を言いたいか。私たちが迫害されるとき、嘘や虚偽、暴力など、迫害する人たちが使う方法を使って自分を守ろうとしないこと。一言で言うと、非暴力を貫くことだ。イエスの非暴力の教えについてはさまざまな箇所に書かれている。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」(マタイ5・39-41)。悪に対して悪で応えてはいけない。イエスの弟子の強さは、弱さと思われることにある。どんなことがあったとしても、神は信じる人のそばにいる。イエスは自ら十字架上でその非暴力の生き方を示した。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)。
3.「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」。キリスト者は神の国のために働き困難に遭うときに奇跡的な解放を待たないこと。もしかしたら財産、仕事、評判、家族、そして命さえ失うかもしれない。自分の働きの実りを見ることもないかもしれない。しかし、イエスが言うのは、そのような苦しみによってすでに神の国に入っている。その人のことが忘れられ、記憶さえ消し去られるかもしれないが、大切なのは神の判断だけだ。
4.ルカはイエスのメッセージを二つの言葉にまとめる。それは信頼と忍耐だ。信頼とは、どんなことがあったとしても、イエスは彼を信じる人のそばにいると信じること。忍耐とはギリシア語でイポモネで、耐えるというより踏みとどまるという意味。ルカはこの言葉やそれと似た言葉を大切にしていて、その福音書と使徒言行録に何回も使っている(ルカ8・15、使徒11・23、使徒13・43、使徒14・22)。ルカにとってはこの箇所での忍耐はキリスト者の特徴であって、魂を救い(「命をかち取りなさい」)実りを生み神の国に入る秘密だ。迫害の時代に生きたルカは、信頼と忍耐という二つのメッセージを大切にした。それは、こんにちの教会の私たちの心にも響くメッセージだ。

画像は、エルサレム神殿(ヘロデ神殿)の模型(エルサレム博物館)。