待降節第1主日(A)

「あなたがたも用意していなさい」(マタイ24・44)

 「時は空間に優る」と教皇フランシスコは言う(『福音の喜び』222-225)が、今日の福音書の箇所は時、つまり歴史についてのメッセージ。歴史は人類の歴史もあれば個人の歴史もあるが、揺れ動く不安定なもの。このような終末論のテーマは、年間の最後の日曜日と最初の日曜日に強く出て来る。ただ注意すべきだが、福音書のポイントは、そういう、人間の知恵でもわかる哲学的な発想にはない。福音書にとってはそこによい知らせがある。もろく消えやすい歴史の中に神が入る。神は一人一人の生活の中にも入って、その時間をポジティブな時間に変える。揺れ動く時間の中に恵みの時間が生まれる。私たちの限りある歴史が救いの旅になる。神がそばにいるその愛と慈しみを知り天に入るための絶好の機会――それが待降節である。
 「待降節」はラテン語ではアドヴェントゥス。これは「待つ」というより「来る」という意味だ。古代世界ではアドヴェントゥスとは皇帝が民を訪問するよい時だった。そして、皇帝が通る時、民は皇帝に「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)」と言った。だから、待降節は、神が私たちに憐れみと救いを与える恵みの時なのだ。
 この時期の一日一日を生きるために、教会は三人の人物を私たちに示す。預言者イザヤと洗礼者ヨハネとおとめマリアだ。この三人とも、それぞれのストーリーによって、待降節を具体的にどう過ごすべきかを私たちに教えてくれる。特にキリストと特別な関係にあったヨハネとマリアは、イエスのそばにいること、イエスを中心にすることを教えてくれる。それは待降節の大きなメッセージだ。母親の胎内で踊った洗礼者ヨハネは、イエスが近づく喜びを感じた神秘主義者。彼は、砂漠の中で自分のすべてをキリストに捧げた。マリアは肉体的に母であっただけではなく、キリストを中心にして生きた。みことばを思いめぐらすマリア、イエスを成長させるマリア、十字架の下でイエスといっしょにいるマリア――教会もマリアのように生きるべきだ。私たちもこのような人たちのようにキリストのために場所を作るよう教会から勧められている。それでは、具体的にどうすればいいか。

Ad te levaviは、伝統的に用いられた、待降節第一主日の入祭唱。詩編25章1節を参照のこと。

 まず第一は神のことばを聞くこと。教会は、毎日曜日だけではなく毎日聖書から注意深くことばを選んで私たちに用意している。だから、待降節の四週間のあいだにみことばに親しむことが理想だ。イエス自身が神のことばなのだから。
 第二は祈り。待降節は代表的な祈りの時期だ。たくさんの言葉を重ねるのではなく、静かな祈り、観想的な祈りが勧められる。聖体を大切にし、習慣になってしまった典礼に新たな心で参加して、その癒しを知り、ミサを再発見すること。それこそ、キリストの降誕だ。
 第三は回心。赦しの秘跡は、自分の罪を中心にした告解ではなく、喜びの秘跡だ。医者に行くとき、私たちは医者に自分の病気を隠さず打ち明ける。同じように、私たちの傷を癒してくださるイエスを信頼して自分の生活について彼に打ち明けるのが告解だ。多くの人が告解する機会に二三分で終わる告解だけではなく、年に一回ぐらいはもっとゆっくりした個人的な告解をしたいもの。内容としては、朝晩の祈りを怠るといった、決まりに反することだけでなく、自分の生き方が本当にキリストに向かっているか、自分の本当の病気を調べて神に示す。
 第四は、人に対するよい行い。この時期、教会は断食など節制を勧める。けれども、その目的は断食そのものではなく、私たちがキリストに対して抱いている希望を実現すること。具体的に言うと、周りの人たちへの関わり方を見直したり、子どもなど家族にどう信仰を伝えるかを考えることなど。
 最後に、待降節は、出産を待つ母マリアのように、キリストの降誕を待つ時期。断食の苦しみではなく、待つ喜びの時期なのだ。苦しみや悪や自分の罪など、喜びに反することはいろいろあるけれど、神から返ってくるのは喜びのチャンスを与える返事なのだ。

画像は、フラ・アンジェリコ「受胎告知」、サン・マルコ修道院(フィレンツェ)。