待降節第3主日(A)

「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ11・11)

アンドレア・ピサーノ「弟子たちの訪問」、1330ー36年、フィレンツェ洗礼堂南扉
アンドレア・ピサーノ「弟子たちの訪問」、1330ー36年、フィレンツェ洗礼堂南扉
 今日の福音書は先週と違った形で洗礼者ヨハネを登場させる。ヨハネは今度は、ガリラヤから離れた死海のほとりの牢にいる。聖書学者が言うには、ヨハネは牢でも特別な扱いを受けていた。ヨハネを牢に入れた領主ヘロデは後にヘロディアの娘のためにヨハネを殺させる(マタイ14・10)が、ヨハネのことを嫌ってはいなかった。だから、弟子たちが牢に出入りしていたようだ。それで、ヨハネは、自分の目で見ることができないとはいえ、キリストが行なった奇跡について人から聞いていたのだ。 
 話を聞いたヨハネは、弟子をイエスのところに送って、核心的な質問をする。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。ここでヨハネがはじめて発したこの問いはそれ以降、救いを探し求める人の問いだ。それは、抽象的な理屈の問いではなく、命賭けの深い問いだ。母の胎内にいた時にもイエスに洗礼を授けた時にもキリストに気づいた偉大な神秘主義者であり、旧約時代の最後の預言者であったヨハネが今、死の危険に面して、迷いと荒みにあってその問いを発する。死ぬ前のマザー・テレサにもこのような暗闇の時期があったと言う。 
 洗礼者ヨハネは、メシアは良い実を結ばない木を斧で倒し、もみ殻を火で焼き払うと考えていた。つまり、メシアが来るとき、世の罪人が滅ぼされると考えていた。だから、イエスの行ないについて聞いたとき、イエスがメシアだと確信をもつことができなかったのだ。イエスについてのこのようなつまずきは他にもある。例えば、イエスの受難と死の予告を聞いてイエスをいさめるぺトロ(マタイ16・22)。あるいは、「お前は神の子、メシアなのか」と聞いた大祭司カイアファ(マタイ26・63)もイエスにつまずいた。 
 イエスはカイアファに対して「それは、あなたが言ったことです」と答える。イエスは、メシアかどうかの答をその人自身にゆだねる。イエスをメシアと信じるかどうか、それは一人一人の賭けなのだ。イエスは洗礼者ヨハネに対しても直接的には答えず、イザヤを引用して間接的に答える。イザヤのその箇所で預言される癒しは、マタイ第8章と第9章の5つの奇跡――2人の盲人(9・27-30)、重い皮膚病の人(8・2-4)、中風の人(9・1-7)、ヤイロの娘(9・18、23-26)、口の利けない人(9・32-33)――で伝えられている。そして、イザヤの「貧しい人は福音を告げ知らされている」は真福八端の最初(マタイ5・3)だ。 
 イエスは「わたしにつまずかない人は幸い」と言う。イエスを信じるためには、そのつまずきを乗り越え、メシアについての、神についての考え方を根本的に変えなければならない。新しい見方を受け容れ、神の深みを知らなけれならない。つまり、来るメシアは、私たちが想像するような、いい人の神、よい行いに報いる神ではなく、人間のあらゆる期待を越えて人間を愛する神、人間のどのような行動よりも先に人間に愛を与えいつくしみを注ぐ神なのだ。貧しく無力で、最後に十字架につけられる神はそのような神だ。待降節に私たちに求められるのは、悪い生活からよい生活に移る単なる道徳的な回心ではなく、まさにそのような変化だ。

 洗礼者ヨハネがそのようなつまずきを乗り越えたかどうか、私たちは知らない。聖書には何も記されていない。その後、ヨハネは殺されたからだ。

 さて、それまでの箇所では、洗礼者ヨハネがメシアについて話していたが、ここで役割の変化が起こる。ここからは、メシアであるイエスが洗礼者ヨハネについて話すのだ。マタイは、洗礼者ヨハネに感動するイエスの言葉を記録している。イエスが言うには、ヨハネは雅人ではなく、骨のある人。偽物の人間ではなく、本物の人間、権力も利益も求めず自由な人間だ。イエスはヨハネを愛する。清く正しく真っ直ぐな生活を送ったヨハネをこれまで生きた人の中でもっとも偉大だと誉める。 
 しかし、イエスは言う、神の国(マタイは「天の国」と言うが、聖書学者によると、それはイエス自身の言葉ではなく、弟子が変えた言葉かもしれない)では、どんなに小さな子供でも、ヨハネより偉大だと。キリスト者は恵みによって救われる。救われるために必要なのは神からただで来る恵みを子供のように受け入れる心だけ。誰もが最初から愛されているという自覚から私たちは自分の罪と弱さを告白し神から救われて、その救いを人に伝えることができる。 
 それでは、洗礼者ヨハネは救われなかったのだろうか。古代の教父たちのあいだにはそのような論争があった。しかし、アレクサンドリアのクレメンスによると、ヨハネは救いから除外された者ではないと言う。ヨハネが語った言葉だけではなく、彼が送った生活を見ると、神の愛を受け容れる態度をとっていた、と。 
 今日、教会が私たちに示す洗礼者ヨハネの姿は偉大な宣教者の姿だ。ヨハネについて本を書いたダニエル大枢機卿は、ヨハネは弟子を自分のところに引っ張るより、自分の弟子を手放してイエスのところに送ったのであり、そこによい宣教者の模範があると言う。ヨハネは、自分のために人を奴隷にするのでなく、キリストのために人を自由にする、と。 
 なぜヨハネは待降節に登場するのか。やはり当たり前のことにとどまらず、大きな問いを抱く必要があるから。私が信じているのは本当にキリストの教えか。私は本当に神の言葉を理解しているか。それとも理解を改めなければならないか。いつでも思い出さなければならないのは、神は私たちをはるかに越えているということ。そして私たちを越えているキリストに会う喜びだ。