主の公現(A)

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2・11)

ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ「東方三博士の礼拝」、1423年、サンタ・トリニタ教会(フィレンツェ)
ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ「東方三博士の礼拝」、1423年、サンタ・トリニタ教会(フィレンツェ)

 主の公現の祭日は、イエスの降誕と大きな関連のある祭日。東方教会では、私たち西方教会のクリスマスのように祝われる日だ。「公現(エピファネイア)」とは、クリスマスに読まれる、テトスへの手紙にある「現れ」とつながりのある言葉。キリストは羊飼い(ユダヤ人)だけではなく、占星術の学者(ユダヤ人以外の人)にも現れた。キリストが全世界にいるすべての人の救い主であること、キリストの教会が普遍的な家族であることを祝うのが今日の祭日だ。 

 今日の福音書の箇所は、さまざまな象徴(シンボル)が使われ、旧約聖書とのさまざまな関連が見られ、さまざまな神学的な意味がある箇所だ。私たちは今日の箇所の理解を深めることで、そこに含まれる豊かな癒しや恵みを受けることができる。
 「そのとき、占星術の学者たちが」。マタイが使うギリシア語「マゴイ」は最近は「占星術の学者たち」と日本語に訳される。しかし、占いは旧約聖書では罪であったから、以前は「王」と解釈されることも「博士」と解釈されることもあった。彼らは、未来や人の運命を言い当てるただの占い師ではなく、生命の意味を探し求める人である。キリスト教では、イエスに出会うために教会に来る人のことを「求道(きゅうどう)者」と呼ぶが、彼らはちょうどそのように、神に惹かれ、神が呼びかける声を聞いた人だ。そこに旅というシンボルが前面に出てくる。「東方でその方の星を見たので、拝みに来た」。 
 彼らが見た「星」については天文学者の研究もある。しかし、私たちにとって大切なのは、聖書が言おうとしている内面的霊的な意味だ。創造主である神は世界を造った時に、何かの痕跡を残した。人間はこの世で神を見ることはできないが、被造物の中に、また心の中に残されているその痕跡を辿ることで神を見つけ出すことができる。彼らが見た「星」とはそうした痕跡だ。 
 「エルサレム」は、政治的宗教的権力の中心であるとともに、メシアに反する力の中心である場所を意味している。星は、エルサレムに着くと見えなくなる。エルサレムでは、偽物の光が神からの本物の光を隠すから。私たちの町もそうだ。神からの光が隠れている社会では、憎しみや無関心、家庭崩壊、離婚、堕胎、孤独、引きこもり、自殺、いじめ、不正などの問題が溢れている。

 「ヘロデ王」は歴史上残酷な独裁者であり、死ぬ数日前にも権力闘争から一人の子どもを殺した。彼にとっては、他者はすなわち敵であり、神も自分の命と権力を脅かす敵であったから、赤ちゃんとして生まれた神を消したかった。ベネディクト16世が言っているように、私たちの心の中にも小さなヘロデがいる。神から離れて自分勝手に生きたい気持ちが私たちの中にもあるからだ。例えば、神の掟が邪魔だと思う時がそうだ。そんな時、神の痕跡を見ることが難しくなる。 

 それに対して、エルサレムを発って「出かけると、東方で見た星が先立って進み」。名誉教皇ベネディクト16世と教皇フランシスコが言うのは、教会は宣伝で広がるのではなく、福音宣教とは神が先立って導くもの。そのように神による導きを意味する星は、幼子がいるところに彼らを連れていく。神は人間のためにその神性を捨てて、低く貧しく小さくなり、幼子となった。そこに神のいつくしみが現れた。キリストはこういうしるしで見つけられるのだ。 
 「ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。彼らは、意味を見つけて喜ぶ。彼らの旅は意味あることだったのだ。
 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」。イエスを生んだマリアは教会を意味する。 
 「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。黄金は王権、乳香は神性、没薬は死のシンボルだが、没薬は雅歌にも出てきて婚約のシンボルでもある。つまり、神と民との婚約のシンボルだ。
 「自分たちの国へ帰って行った」。イエスに出会って、その喜びに満ちて、今度はイエスを伝えるために、自分の生活に戻るのだ。私たちも同じように、イエスに出会った喜びに満たされて、それぞれの生活の中でイエスを伝えたい。

2016年福音の再掲載。