年間第4主日(A)

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」。(マタイ5・3)

フェレンツィ・カーロイ「山上の説教」、1896年、ハンガリー国立美術館(ブダペスト)
フェレンツィ・カーロイ「山上の説教」、1896年、ハンガリー国立美術館(ブダペスト)
  降誕節や復活節は、イエスが神から送られた救い主であることを観想する時。「救う」ことは「癒す」ことと同じだから、イエスが私たちの心を癒す本当の医者であることを観想する時とも言える。それに対して、年間は医者であるイエスが私たちの心を治療する時。今日の箇所の裏にも私たちのさまざまな病気が描かれている。
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」。イエスが宣教を始めたカファルナウム付近には丘がある程度。また、ルカ福音書の並行箇所では「山」ではなく「平らな所」と書かれている。つまり、福音書記者マタイは歴史的出来事を書いているだけではなく、その出来事の裏にある神学的意味を表現しようとしているのだ。マタイの念頭にあったのはシナイ山。カファルナウムから何千キロも離れた険しい山で、神がモーセに十戒を授けた山だ。つまり、マタイが言いたいのは、イエスが私たちを神の国に導く本当のモーセであり、モーセはイエスのしるしだったということ。
 今日の箇所から始まるマタイ福音書の三つの章は、山上の説教と一般に呼ばれ、イエスが3年間の公生活で話した内容が5つの話題にまとめられている。この5という数字は、「(モーセ)五書」と呼ばれる旧約聖書の最初の五つの書物を示唆している。つまり、マタイが言いたいのはやはり、イエスが新しいモーセであるということ。
 山上の説教の最初の箇所にあたる今日の箇所は真福八端と呼ばれ、世界の歴史の中で一番素晴らしい言葉とガンジーも言っている箇所。言葉に尽くせないほどの意味がある。解釈するより、沈黙、祈り、観想を通じて、その特別な恵みを汲みとりたい。
 「...幸いである」。日本語で「幸い」と訳されている原語は、ヘブライ語では「アシェール」、ギリシア語では「マカリオス」。いずれの近代語に訳す時も聖書学者が苦労する言葉。「幸い」と言うと、「運がいい」と理解されるが、それでは意味が通じない。苦しんだり、迫害するのが運がいいということになるから。注意すべきなのは、原語が旧約聖書で45回使われる特別な言葉であるということ。フランス人でもユダヤ人でもあり新旧約聖書全巻を仏訳した聖書学者アンドレ・シュラキはこの言葉を、通常のようにbienheureuxではなくavant(先へ)というフランス語で訳した。つまり、イエスがこの言葉を使って言いたいのは、起き上がって(=復活)先へ進みなさいということ。あきらめてはいけない、がんばりなさい、神はあなたとともにいる、ということ。神は、苦しんでいる人のどんなに小さな溜息にも気づき、その泣き声を聞き取って、その目から涙をぬぐい取るのだ。
 マタイのこの箇所には8つの「幸い」について語られている。いくつかの言葉について少し説明しよう。
 「心の貧しい人」。同じ言葉を記録しているルカが金持ちのギリシア人相手に布教していたのに対して、マタイは貧しいユダヤ人を相手に布教していた。貧しさとは何のことか。貧しさとはものが足りないということだけではない。この箇所では、アナウィンという有名なヘブライ語の言葉が使われている。これは、神の貧しい人という意味で、みんなから見捨てられ友だちも味方もまったくいない、もう神しかいないという人のこと。本田哲郎神父は「圧迫された者」と訳す。釜ヶ崎の労働者のように、みんなから見捨てられ踏まれてつぶされた人のことだ。そのような人たちに向かってイエスは言う、「幸いである」、つまり、「がんばれ、神があなたたちのそばにいる」と。今日の第二朗読のパウロの手紙にも、神は「無力な者」を選ぶとある。神は、弱い人によってすべてを新しくするのだ。
 「柔和な人々」。臆病な人という意味ではなく、非暴力を選ぶ人のこと。暴力や権力や富によって人の上に立つことを重視するこんにちの世界ではとても大切なメッセージだ。私たちキリスト者も歴史の中で暴力の誘惑を何度も受けているし、身近なところでは、ゴシップなども暴力の一つ。それに対して、父母のような心をもち、相手の弱さを利用するのではなく、相手を癒す人こそ幸いだとイエスは言う。
 「義に飢え渇く人々」。正義に飢え乾くとは、誰も味方してくれないということ。そんな時、神は言う、私が味方だと。人間の言う正義は往々にして正義ではない。昨年京都賞を受賞したアメリカの哲学者マーサ・ヌスバウムが言うように、人間はよく正義の名の下で復讐するから。死刑制度もそうだ。しかし、神の正義はそうではない。いつくしみの聖年にパパ様が言い続けたように、神の正義はあわれみだ。母親が病気になった子どもが元気になることを望むように、神は罪人が立ち直ることを望む。神の正義はあわれみなのだ。
 「心の清い人々」。それは貞潔な人を意味するのではなく、神の目でものを見る人のこと。イエス自身、囚われない目でさまざまな人を見てあわれみを感じ、身の回りの自然の有様にも目を留めていた。
 「平和を実現する人々」。暴力が溢れるこんにちの世界。私たち一人一人に何ができるだろうか。たとえ大きなことはできなくても、小さなことから始めることができる。たとえば、挨拶。挨拶とは相手に気がつくこと。聖書でもとても大切だ。天使はおとめマリアに挨拶したし、パウロも手紙で挨拶している。典礼でも大切だ。挨拶するとは、相手が自分にとって大切だと表現すること。相手に対してそのような心をもつのでなければ、教会に来てミサに与っても無意味になってしまうかもしれない。世界平和は身近なところから始まる。相手を理解し、受け容れ、赦すことから始まる。
 「義のために迫害される人々」。この言葉には現代的な意味がある。カトリックは世界でもっとも迫害されている宗教だから。日本のキリシタン時代にも『マルチリヨの勧め』という本が印刷されており、殉教から逃げるのではなく、イエスにならって相手を赦して殉教するように宣教師は信者を教育していた。禁教時代に潜入した宣教師シドッチも、10年間キリシタン屋敷に幽閉されても、牢番が風邪を引かないように気を配っていたという記録が新井白石の『西洋紀聞』にある。
 今日の言葉も山上の説教全体も、イエスの口から出た言葉であるだけではなく、イエスの生活そのもの、イエスのいのちそのものだ。私たちも、言葉でも模範でも神の国に入るために宝物として大切にしたい。そこに私たちの喜びと幸せの秘密がある。