年間第5主日(A)

あなたがたは世の光である。(マタイ5・14)

ラオディキアの神殿の円柱に刻まれたメノラーと十字架(画像の出典はhttps://holylandphotos.wordpress.com/)
ラオディキアの神殿の円柱に刻まれたメノラーと十字架(画像の出典はhttps://holylandphotos.wordpress.com/)
 私たちは山上の説教を6週間かけて読む。先週はその最初の箇所を読んだ。少し難しいがすばらしいページで、そこでイエスは美しい生活のイメージを描いた。今日の箇所では、そういう美しい生活が自分のためだけでないこと、イエスの弟子は他の人に対しても大きな責任があることをイエスは教えている。キリスト者は自分の完成を目指すだけではなく、人に伝えなければならない。信者の場所は、教会ではなく、世の中なのだ。 
 このことを教えるためにイエスは、非常に印象的な二つの比喩を使う。一つが塩、もう一つが光だ。イエスが言おうとしていることを理解するためには、この二つの言葉が使われていた当時の環境を黙想すべきだ。 
 「あなたがたは地の塩である」。キリスト者は、イエス自身であるパンを食べ、イエスの味を知って、この世に塩味をつける。塩味とは具体的に何を意味するか。それはイエスの価値観のこと。塩が食べ物に塩味をつけるのと同じように、キリスト者はイエスの価値観をこの世にもたらす。それは、この世的な価値観、人間的な価値観(近頃言われる「ポリティカル・コレクトネス」)とは違った新しい価値観で、人生に意味を与える。 
 イエスの言葉で示唆されているのは、「塩」が食べ物を腐敗から守り保存する役割もあること。山上の説教がなされたカファルナウムの近くにはマグダラの町もある。死海沿岸は岩塩の産地だが、マグダラは何千年も前から魚の塩漬けの技術で有名で、マグダラで塩漬けされた魚はエジプトまでも運ばれたそう。塩が魚の腐敗を防ぐように、キリスト者は社会の中に善や美などの価値が消えないようにする役割がある。神の美しさを世の中に保つのがキリスト者だ。 
 それだけではない。当時、塩には、友情や契約というもう一つの意味があった。塩の契約とは、ヤーウェとイスラエルとのあいだに交わされた絶対に破られない契約のことであり、その契約のしるしとして、塩入りのパンを食べる習慣があった。キリスト者は、神と人との契約をこの世で保つ役割がある。その契約の根本は、神の人間への愛、人間の神への忠実だ。だから、神が人間を愛することを世の中に示すと同時に神に対しての忠実を示すのがキリスト者の役割だ。 
 「塩に塩気がなくなれば」。イエスが言うには、塩もだめになり、塩味を失う恐れがあるということ。ギリシア語原語には、「狂う」とある。 
 塩に塩気がなくなるとは具体的にどういうことか。塩の役割は食べ物の中に浸みこむことだが、塊のまま残るなら、その役割を果たせないということ。つまり、それは、キリスト者が人と交わらず、人から離れてエリートの教会を作る危険、 自己満足の教会(教皇フランシスコ)を作る危険だ。
 または逆に、水や蜜など他のものと混ぜられること。つまり、これは、キリスト者が世の中にいることで、テレビなどのマスコミ、一般常識などを受け容れて、世の価値観に影響されて、キリスト者としてのアイデンティティを失う危険だ。その結果、教会がただの人間的な組織になってしまう。

 塩はものに味をつけ、ものを変えるが、光はものを照らしても、ものを変えない。塩が味をつけ腐敗から防ぐのに対して、光はよく見るための明かりであり、何がいいか悪いかを理解し、何に価値があるかないか、何を選ぶべきかを判断するための力だ。

 光とは具体的に何か。ユダヤ人にとって光とは神そのものであり、また神の掟である律法、トーラーのことだった。そのために、神殿の奥、律法が納められた至聖所には、メノラー(燭台)がいつも灯されていた。だから、「あなたがたは世の光である」というイエスの言葉には注意すべきところがある。本当の光はやはり神であり、神から送られたイエスであって(「わたしは世の光である」ヨハネ8・12)、イエスの弟子はその光によって照らされた者だ。キリスト者は、太陽に照らされて輝く月のように、自分の光で輝くのではなく、キリストの光に照らされて人のために光になり、人を照らすのだ。
 「あなたがたは世の光である」。これは、これから旧約聖書ではなく、イエスを信じたキリスト者が世の光だということ。シャガールが有名な絵画「白い磔刑」でメノラーの上に十字架を描いたように(こちらを参照)、神の掟の上にキリストの十字架が輝く。イエス自身、そしてその言葉と生活が光であり、キリスト者もそのイエスの光を伝える者として光と言える。
 「山の上にある町は、隠れることができない」。この言葉はイザヤの預言を示唆している。「終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい」(2・2)。 「山の上にある」と言っても、権力をふるうためにではなく、愛やいつくしみを注ぐために、十字架がエルサレムの外の丘の上に立ったようにあるのだ。
 「ともし火をともして升の下に置く者はいない」。当時は、麦を量るために、秤の代わりに升を使っていた。升は逆さまにして燭台としても使われたが、ともし火を消す時にも使われていた。升の下に置くとは、人間的世間的な価値観でイエスの言葉を曲げてしまうこと。さまざまな信心も、イエス自身を隠す御利益宗教になりかねない。自分の利益のためにイエスの教えを使ってはならない。 
 「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。これは、自分の行いを自慢するという意味ではない。自分の行いを人に見せるとか、自分が目立つとか、宗教を自分の名誉のために使うのではなく、自分は透明になって本当の光である神、イエスを映し出すということ。そして、イエスが示した神の美しさを理解させなさいということ。
 英国国教会からカトリックに改宗した福者ジョン・ヘンリー・ニューマン(1801-1890)とともに、祈りたい、「導きたまえ、やさしい光よ」(祈りの全文と訳はこちら)と。