年間第6主日(A)

あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ5・20)

ルドルフ・イェーリン「シュヴァルツバルトの山上の説教」、1912年、ライヒェナウ福音教会
ルドルフ・イェーリン「シュヴァルツバルトの山上の説教」、1912年、ライヒェナウ福音教会
 先週に続き、今日の箇所も山上の説教の一部。かなり長く、さまざまなテーマを含んでいる。その一つ一つを説明すると長くなるから、いくつかの点についてだけ簡単に説明したい。 
 マタイが話している相手は、他の福音書記者とは違い、ユダヤ教徒からキリスト者になった人たち。彼らはある特殊な問題を抱えていた。モーセの掟とイエスの教えの関係をどう考えたらいいかという問題だ。それは、キリストに出会ってから旧約聖書を知ったこんにちの私たちには無縁の問題だ。けれども、その問題に答える今日の箇所にも、よく読めば、私たちにとっても大切なものが含まれている。 
 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。つまり、これまでの掟の理解は不完全だったということ。ファリサイ派のいろいろな人がそうであるように、掟の文字を守っても、掟の心を忘れてしまったから。それに対して、イエスの弟子は、掟を行なうために、外側からではなく、内側から始めなければならない。新しい掟は心の中から始まる。神から愛を受けた体験から始まる。そして、掟の実現とは、人に対してその愛を分かち合うことなのだ。外側に関心をもつファリサイ派はできるだけ少なく掟を守るが、内側を大切にするキリスト者はできるだけ多く神を愛し、できるだけ多くよい行いを人にすべきだ。
 モーセの掟とキリストの教えの関係を示すために今日の箇所では6つの例が使われている。 目につくのは、どの例でも「…と命じられている。しかし、わたしは言っておく」と言われていること。この表現(「反対命題(アンチテーゼ)」)は、当時のラビたちが律法について解釈するときに用いた表現だが、イエスは、この表現によって単なる解釈ではなく、新しい意見を出しており、そこにイエスがメシアであることが示されている。
1.「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。イエスが言うのは、殺すとは外面的に殺すことだけではないということ。たとえ人を殺さなくても、憎んだり侮辱したり、いろいろな形で人を殺すことができる。だから、外面的に人を殺していないだけでは十分ではない。

2.「まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。この箇所は、ホセア6・6等を示唆している(「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」、イザヤ58・4以下も参照)。神から赦しを受けた以上、互いに赦し合わないなら、神が喜ぶはずはない。神は親だから、自分の子であり互いに兄弟である人間が互いに喧嘩して愛し合わないなら、耐えられない。互いに愛し合うことこそ本当の宗教であり、聖歌などで外面的にだけミサを美しく執り行うことではない。 

3.「『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。男女関係についての当時の考え方はこんにちと異なるところがあり戸惑うが、最終的にイエスが言いたいのは、たとえ外面的に姦通をしなくても、本当の愛情を抱いてではなく自分の欲望を満たす道具として異性を見るなら、神が考えた男女関係ではないということ。
4.「『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」。当時のユダヤ人は、何かの約束や契約の際に、それを裏付けるために神の名を出していた。そのような習慣は今の日本にはない。けれども、神について話をするとき、私たちは神に対する尊敬の念をもっているかどうか、私たちが話している神は本当にイエスが私たちに示した神か、それともそこに私たちの考えが入っていないかということを神の言葉に照らして調べなければならない(二コリント2・17参照)。
 最後に大切なのは、イエスは新しい掟を与えるだけではなく、イエス自身が生きた掟であるということ。キリスト者にとって、掟とはキリスト自身なのだ。イエスの言葉だけではなく、イエスの生き方がキリスト者の掟である。