年間第8主日(A)

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。(マタイ6・30)

イスラエルのアネモネ by Zachi Evenor
イスラエルのアネモネ by Zachi Evenor
 よく知られている今日の箇所。美しく印象的で、イエスの教えだけではなく感性が垣間見られ、摂理について語られる。私たちが上と下に(「空の鳥」「野の花」)目を向けるなら、生きとし生けるものが自分に命を与えることができず、神から生かされていることがわかる。 
 今日の箇所に限らずイエスの言葉はさまざまなテーマに結びつけて解釈できるが、教会が今日の第一朗読として選んだのは、苦難にあるシオン(イスラエル)の嘆きに神が答える、イザヤ書の箇所。「主はわたしを見捨てられた」「わたしの主はわたしを忘れられた」――私たちもそう思って苦しむ時がよくある。けれども、神は言う、「たとえ、女たちが[自分の乳飲み子を]忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」。だから、教会は、福音書の箇所も今日はこの箇所との連関で読んでほしいのだ。神は私たちを決して忘れないということは私たちの信仰の土台だ。このことを私たちは、マリアが見聞きしたことを「心に納めた」ように、心に留めるべきだ。私たちは、信者になった後でも、生活の中で起きるさまざまなことのために疑いを抱き悩み苦しむものだから、預言者イザヤが伝えた言葉、そして今日イエスが言う言葉は私たちにとって大きな力になる。 
 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。…あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。ここで語られているのは私たちの価値観についてだ。私たちは何に価値を見い出すか。それは私たちの霊的生活にとって大切なことだ。そして本来、富ではなく神に最高の価値があるのに、私たちは無意識的に世間の常識に引きずられて、富に最高の価値を見てしまう。それは本末転倒の間違いだ。 
 「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」。「思い悩むな」とは少し厳しい表現だ。でも、イエスは、生きるために働く必要はない、鳥のように働かなくても食べ物が与えられると言っているわけではない。「思い悩むな」とは、たとえ衣食がなければ困るとしても、それを実際以上に大切なものと考えすぎるなという意味だ。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。私たちは知らず知らずのうちに、大切でないものを大切なものとして、大切なものを大切でないものとして扱う間違いをする。例えば、ある人とつまらないことで喧嘩をして、もう二度と会わないことになったり、何かミスをしてそこから立ち直れなかったり。そういう間違いをせずに、すべてのものをその固有の価値に従って扱うべきだとイエスは言っているのだ。ものについての正しい判断と扱いは神の光によって可能になる。神の光の下で深く考えるようにイエスは私たちに勧めているのだ。
 「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」。このようなイエスの言葉は、私たちへの問いを含んでいる。あなたは自分をどのように評価しているか。自分にどのような価値を見ているか。このような自己評価に関しても危険がある。それは一方では自分を過大評価する危険であり、他方では自分を過小評価する危険である。一方で、私たちは、自分を実際以上に評価する危険がある。自分が人よりもすぐれていると考えたり、自分がいなければだめだと考えたり。他方で、逆に、私たちは、間違った教育とか、自分の失敗などのために、自分はだめだと考えたり、自信を失ったりする。そして、人を愛したり、新しいことを始めることをあきらめて、硬直状態に陥る危険もある。この二つの正反対の心理学的結果に対して、私たちは、自分の色眼鏡で自分を見るのではなく、神の目で自分を見なければならない。神が自分を見ているように自分を見ることで、妄想によって膨らみすぎたり縮みすぎたりする自分ではなく、等身大の自分を見ることができる。そして、今日の箇所でイエスが言うには、私は神にとって、空の鳥よりも野の花よりも大切なのだ。どんな信者も、子どもから聖人に至るまで、同じ見方をしなければならない。自分の前に神がいて、その神が私を愛しているという自覚がキリスト者の霊的生活である。神は、私のやっていることが正しいとは必ずしも言っていない。もしかしたら私は間違ったことをしていて、罪を犯しているかもしれない。でも、神は変わらず私を愛し続けている。そして、私の前に歩いて、先へ進むように私の力になってくださる。