四旬節第2主日(A)

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17・2)。

 四旬節第2主日は大切な主日。テーマは変容だ。変容とは姿が変わること。イエスは弟子たちのため、そして私たちのために、目に見える姿の背後に彼の本当の姿を現す。  
 「[その時]」。実はマタイ福音書には「6日の後」と書いてある。6日前には、ペトロがイエスの質問に「あなたはメシア」と答えた後、イエスははじめて死と復活を予告し、それをいさめたぺトロに「サタン、引き下がれ」と言った。6日とはまた、創造の6日間、そしてシナイ山でモーセに神が現れるまでの6日間を思い出させる。
 「イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて」。ペトロは実名はシモンだが、イエスにペトロと呼ばれていた。ペトロとは岩という意味。彼はがんこな人間だった。ヤコブとヨハネの兄弟も罪人を滅ぼそうとするなど、暴力的なところがあり、イエスから雷の子と呼ばれていた。弟子にあだ名をつけるとはイエスのユーモアも感じられる。イエスは特にこの3人を育てようとしており、十字架にかけられる直前にゲツセマネにもこの3人を連れて行くが、その時でさえイエスが望んでいることをわかっていない3人は寝てしまう。
 「高い山に登られた」。マタイ福音書には4つの山が出て来るが、その一つで、イエスが十字架につけられた山をも連想させる。
 「顔は太陽のように輝き」。モーセはシナイ山の上で雷の中十戒を受けたが、一週間のあいだ神の前にいたために、顔が輝いていて、人々は眩しくて見つめることができなかった。だから、モーセは顔を覆いで隠して、人々に接触した。つまり、マタイが言いたいのは、イエスが新しいモーセであること。旧約時代はモーセが神から掟を受けたが、今の時代はモーセの掟ではなくキリストの言葉が中心となるということ。
 「服は光のように白くなった」。白は神のこと。つまり、イエスは本当の神の子であることを意味している。
 「お望みでしたら、ここに仮小屋を三つ建てましょう」。ユダヤ教の三大祭の一つに仮庵(仮小屋)祭がある。こんにちでも行われる祭で、ユダヤ人たちは8月か9月に家の外に小屋を建てて、1週間その中で生活する。それはイスラエルがエジプトから解放された出来事の記念であり、メシアを待つ祭でもある。だから、ペトロは仮庵祭を思い出して、メシアが現れることを考えたのだろう。しかし、ペトロは、イエスがどのようなメシアなのかがまだわかっていない(ルカ9・33「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかった」参照)。ぺトロはまだ、イエスを誘惑したサタンのような考え方をしている。まだ強いメシアを待っている。しかし、イエスは、罪人を滅ぼし力をもってイスラエルを救うメシアではなく、十字架のために来たメシアだ。彼が行くのは特別な道だ。罪人を滅ぼすのではなく、罪人が救われ生きるように人の罪を背負って十字架につけられるという道だ。

  「声が雲の中から聞こえた」。声とは父なる神の声。その声はイエスの洗礼の時にも聞こえたが、今日は荘厳な形で聞こえる。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。「愛する子」とは、かわいい子という意味ではない。「愛する者」とはヘブライ語では雅歌にも出てくる「ドッティ」で、全財産の相続人を意味する。だから、神が言うのは、神が人間に対してどう思うか、どうしたいかをイエスがいちばんよくわかっているということ。だから、イエスがメシアであること、イエスの道が神が望む道であることを神ご自身が示したのだ。 

  「手を触れて」。イエスは病を癒す時に相手に触れることが福音書にしばしば書かれているが、ここでも同じ言葉が使われている。

 「顔を上げて」。これは詩篇など聖書の多くの箇所に出て来る大切な動作だ。

 「イエスのほかにはだれもいなかった」。モーセもエリヤも消えて、イエスだけがメシアとして残る。マタイはイエスだけがメシアだと宣言するのだ。

 「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」。この言葉は、マタイ福音書記者の特徴であり、マルコ福音書でも強く出て来る有名な言葉。この出来事を隠さなければならないのはなぜか。この出来事はすばらしい経験であったとしても、まだ最後の出来事ではない。イエスの輝きは十字架上ではじめて明らかになるからだ。十字架につけられて死ぬ時、人間の目で見れば失敗で終わる時に却って、神によってイエスの勝利が、イエスの栄光が示されるのだ。イエスが本当にわかるのはその時だ。
 今日、教会は求道者に、そして私たちに何を言いたいか。求道者は教会に導かれ、司祭に出会い、キリストの言葉を聞いた。それは喜びにちがいない。けれども、もっと大切なことがある。それは十字架だ。イエスはすでに山上の説教の最後で「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と言った。苦しい時、見捨てられる時、迫害される時、幸いなのは、神がそばにいるから。私たち一人一人の生活には、病気、失敗、人間関係の悩み、経済的な困窮など困難な時がある。けれども、私たちがその時キリストとともに生き、キリストの十字架を思い出すなら、私たちは幸いである。それを忘れてはいけないと教会は求道者に言いたいのだ。神が人を救うための道具は、権力やお金や名誉ではない。神は暴力や強い言葉を用いず、十字架上で死ぬその弱さで人を納得させる。私たちも同じ生活をするように勧められている。