四旬節第3主日(A)

「それは、あなたと話をしているこのわたしである」。(ヨハネ4・26)。

アンジェリカ・カウフマン「井戸端のキリストとサマリアの女」、1797年、ノイエ・ピナコテーク
アンジェリカ・カウフマン「井戸端のキリストとサマリアの女」、1797年、ノイエ・ピナコテーク
 四旬節第3主日に読まれるのはイエスとサマリアの女の有名な物語。信者に好まれ、美術にもたくさんの作品がある。マルコ福音書では「サマリア」という言葉は一度も使われず、マタイ福音書でも一度出て来るだけ、ルカ福音書にはサマリア人について二つのエピソードがあるがこの物語は出て来ない。それに対して、ヨハネはこの物語について詳しく語っている。ただし、聖書学者が言うには不自然な点がいろいろあり、実際の出来事の報告というより、神学的なメッセージと理解した方がいい。この物語は、洗礼の準備をする求道者、そして自分が受けた洗礼を思い出しながら求道者といっしょに復活祭に向かって歩む信者への教会からの大きな賜物だ。 
 「そこにはヤコブの井戸があった」。ヤコブの井戸(泉)は数十メートルもある深い井戸。現在もあるが、当時でも掘られてから1000年経っていた。井戸は当時、羊飼いが水を飲ませるために羊の群れを連れて行ったり、女性が水がめをもって水を汲みに行ったり、商人がものを売るために集まる場所だった。さらに、旧約聖書では男女が出会う場所。三つの例を挙げると、アブラハムの僕はイサクの嫁となるリベカを井戸で見つけ、ヤコブは井戸でラケルに会い、モーセは井戸でツィポラに出会い結婚する。だから、ヨハネがこの物語で語りたいのは、花婿であるイエスと花嫁である人間との出会いの物語なのだ。 そのことはすでに、カナの婚礼(2・1-12)や洗礼者ヨハネの言葉(3・29)で示唆されている。
 「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」。福音書で、イエスが疲れているのはこの箇所でだけ。ヨハネがここで示したいのは、人間を探して長い旅をして疲れた神の姿だ。預言者ホセアは姦通した妻ゴメラを買い取ることで、イスラエル(女性名詞)が他の神々を崇めてもイスラエルを愛し続ける神の愛を預言した。神は花婿が花嫁を探すように、離れて行った人間を探すのだ。グレゴリア聖歌(死者のためのミサの続唱)でも、「あなたは私を探し疲れて座っておられ、十字架につけられ私たちを救ってくださったQuaerens me, sedisti lassus: redemisti crucem passus」と歌われる。人間が神なしに自分の力でうまく生きていけると思ったとしても、神は人間なしではいられず人間を探し求める。人間を必要として愛に悩む神――ここでヨハネは、神についての革命的なイメージを示している。そしてこの箇所を読むことで教会が求道者に言いたいのは、神はずっと昔から、あなたが生まれる前からあなたを探してきたということ。

 「正午ごろのことである」。暑いイスラエルでは水を汲みに行くのは朝か晩。真昼には誰も水を汲みに行かない。ここでヨハネが考えているのはイエスが判決を下されるピラトの裁判。「正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」」(19・14)。つまり、ヨハネがここで言いたいのは、イエスがメシアだということ。「それは、あなたと話をしているこのわたしである」。 

 「サマリアの女が水をくみに来た」。この女の名前は書かれていない。サマリア人とは、アッシリアからの移民と民族的にも宗教的にも混ざり、偶像崇拝に陥った人たちのこと。彼女の「五人の夫」とは、聖書学者によると、サマリア地方の5つの山のことで、それぞれの山でそれぞれの神が礼拝されていた。 
 「イエスは、『水を飲ませてください』と言われた」。「水」は婚礼の完全な愛のシンボル。イエスが十字架上で「渇く」(19・28)と言ったように、神は人間の愛に渇き、人間の愛を求める。 
 「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。サマリアの女とイエスの会話はかみ合わない。イエスとしては神が偶像崇拝に陥ったイスラエルを愛して探し求めることを話しているのに、彼女は自分の力で自分の幸せを得ることを考えているのだ。 
 「もしあなたが、神の賜物を知っており」。キリストは人間が自分の力で探して見つけるものではなく、賜物だ。すべてがそこから始まる。 
 「『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」。最終的に、人間も渇いている。たとえ気がついていなくても。その渇きを癒すことができるのは神だけだ。 
 「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」。権力にしても富にしても名誉にしても、人間が自分の力で探し求めたものは必ず不満で終わる。何かが足りないと感じる。それは私たちも経験することだ。それに対して、命にしても愛にしても生きる意味にしても、善いものはすべて神の賜物だ。だから、神は偉大な与え主だ。 
 「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った」。イエスに出会ったら、もう他の水は要らない。イエスの美しさに打たれ、イエスに出会った喜びに満たされて、イエスにすべてを委ね、宣教師になるのだ。