四旬節第4主日(A)

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)。

オラツィオ・デ・フェラーリ「生まれつきの盲人のいやし」、ストラーダ・ヌオーヴァ美術館
オラツィオ・デ・フェラーリ「生まれつきの盲人のいやし」、ストラーダ・ヌオーヴァ美術館
 ヨハネ福音書第9章は、生まれつきの盲人のいやしの物語。しかし、ヨハネは奇跡の具体的な出来事を報告するより、イエスを知り認めるプロセスを示す。この長い物語は、ある聖書学者によれば、三つの部分に分けることができる。 
1.イエスの癒し 
 第7章で仮庵祭の機会にエルサレムに上ったイエスは、第8章の終わりで、ユダヤ人から石を投げられて、神殿を出る。その時、イエスは、生まれつきの盲人に会う。すると、弟子たちは、その人の盲目が彼自身のせいか、彼の両親のせいか、という宗教的な議論を起こす。当時は、病気、特に盲目は、罪に対する罰と理解されていたからだ。このように目の前にいる人を忘れて、その人が抱えている問題を議論の材料にしてしまうのは、ファリサイ派のように制度化した宗教によくあることで、イエスの弟子もそうだった。しかし、イエスはちがう。彼は他の人が見ないことを見る。ヨハネ福音書では、イエスのまなざしはまず、たとえ罪人であっても、その人の罪ではなく、その人の苦しみに向かう。彼は審判するのではなく憐れみに駆られる。イエスは、人間の苦しみに納得しない神の顔だ。 
 「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」。少し驚かせられる行動だが、当時は、唾には特別な治癒力があると考えられていた。つまり、唾は息と同じように、創造し新しくする神の力の象徴なのだ。だから、唾と土を混ぜて目に塗ることはアダムの創造を思い出させる。また、母親が子どもの傷を舐めるように、ぬくもりのある動作だ。 
 「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」。シロアムとはメシアと音も似ている。つまり、メシアのところに行きなさいということ。ここでは、洗礼による洗いが示唆されている。「彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」。この物語は、初代教会の時代、洗礼志願者のために使われた箇所だ。 
2.ファリサイ派の尋問 
 「『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者もいた」。キリストに出会って洗礼を受けた人は、外面的には他の人と同じ生活を送っても、別人になっている。これまでは座って物乞いをし人に頼る生活を送っていたが、今は目が開かれ杖なしに立って元気に生きている。それがイエスに会った人の姿だ。「わたしがそうなのです」。これは、神の自己啓示の言葉「エゴ・エイミー」。つまり、ヨハネが言いたいのは、キリストに出会った人は癒され照らされて、ある意味で神の子として新しく生まれたということ(ヨハネ1・12参照)。
 ヨハネ福音書第9章は、生まれつきの盲人のいやしの物語。しかし、ヨハネは奇跡の具体的な出来事を報告するより、イエスを知り認めるプロセスを示す。この長い物語は、ある聖書学者によれば、三つの部分に分けることができる。 
1.イエスの癒し 
 第7章で仮庵祭の機会にエルサレムに上ったイエスは、第8章の終わりで、ユダヤ人から石を投げられて、神殿を出る。その時、イエスは、生まれつきの盲人に会う。すると、弟子たちは、その人の盲目が彼自身のせいか、彼の両親のせいか、という宗教的な議論を起こす。当時は、病気、特に盲目は、罪に対する罰と理解されていたからだ。このように目の前にいる人を忘れて、その人が抱えている問題を議論の材料にしてしまうのは、ファリサイ派のように制度化した宗教によくあることで、イエスの弟子もそうだった。しかし、イエスはちがう。彼は他の人が見ないことを見る。ヨハネ福音書では、イエスのまなざしはまず、たとえ罪人であっても、その人の罪ではなく、その人の苦しみに向かう。彼は審判するのではなく憐れみに駆られる。イエスは、人間の苦しみに納得しない神の顔だ。 
 「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」。少し驚かせられる行動だが、当時は、唾には特別な治癒力があると考えられていた。つまり、唾は息と同じように、創造し新しくする神の力の象徴なのだ。だから、唾と土を混ぜて目に塗ることはアダムの創造を思い出させる。また、母親が子どもの傷を舐めるように、ぬくもりのある動作だ。 
 「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」。シロアムとはメシアと音も似ている。つまり、メシアのところに行きなさいということ。ここでは、洗礼による洗いが示唆されている。「彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」。この物語は、初代教会の時代、洗礼志願者のために使われた箇所だ。 
2.ファリサイ派の尋問 
 「『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者もいた」。キリストに出会って洗礼を受けた人は、外面的には他の人と同じ生活を送っても、別人になっている。これまでは座って物乞いをし人に頼る生活を送っていたが、今は目が開かれ杖なしに立って元気に生きている。それがイエスに会った人の姿だ。「わたしがそうなのです」。これは、神の自己啓示の言葉「エゴ・エイミー」。つまり、ヨハネが言いたいのは、キリストに出会った人は癒され照らされて、ある意味で神の子として新しく生まれたということ(ヨハネ1・12参照)。