聖木曜日(A)

イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。(ヨハネ13・1)

ローリー・リソンビー「洗い」、2006年(http://www.laurielisonbee.com/)
ローリー・リソンビー「洗い」、2006年(http://www.laurielisonbee.com/)
 聖週間、そして過ぎ越しの聖なる三日間は私たちキリスト信者にとって一年で一番大切な時。そして、(一般的な意味ではなく深い神学的な意味で)「美しい」三日間だ。この三日間で私たちは、神について、そして神が遣わされたキリストについて一番すばらしいことを知り、それを知って喜びを感じる。そして、それによって私たちの生活も変わる。 
 ただし注意しなければならないのは、今日の第一朗読に「記念」という言葉があったが、過ぎ越しの三日間を記念すると言っても、何もなかったかのようにゼロに戻るわけではない。私たちはイエスが復活したという立場から記念するのだ。そして、ヨハネはその福音書で「主」という言葉をよく使うが、私たちはイエスを記念するだけではなく、主を記念する。私たちは、イエスがキリストであり、神から送られた神の子であるという体験をした上で聖週間に入るのだ。 
 イエスの最後の晩餐が行われたのは夜。「夜であった」(ヨハネ13・30)。ちょうど主の晩餐のミサが行われる時だ。この夜、私たちは何がわかるか。それは私たちが愛されていること。この夜、私たちは愛されているということを深く体験する。ヨハネ福音書にはこのテーマがさまざまな箇所に出て来る。例えば、イエスはニコデモに向かって「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と言う。イエスの生涯全体が愛だった。そして、この夜、このテーマがもう一度強く出て来る。 
 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。イエスはカナの婚礼の時は「わたしの時はまだ来ていません」と言ったが、その時がようやく来たのだ。この夜、イエスがどういう方で私たちに対してどんなことをしてくださるか、私たちがどうなるかがわかる時、そして私たちが救われる時が来たのだ。そして、その時、弟子たちを「この上なく愛し抜かれた」。この日本語訳はよくできた訳と言える。例えば夫婦は死に分かれるまで愛することを結婚式で誓うが、イエスが言うのはそういうことではない。イエスは私たちを愛するため、神である自分の限界にまで至ったのだ。その先には何もない――神の外に何もなく混沌があるだけなのと同じように。神は私たちを愛する、自分を忘れ自分を捨てるほどに。この愛以上の愛はない。イエスは私たちをそれほどの愛で愛してくださったのだ。何とすばらしいことか。このことは新約聖書のいろいろな箇所に書いてある。聖なる過ぎ越しの三日間、その愛の恵みを浴びたい。教会に来て典礼に参加することが勧められる。それが無理なら家で聖書を読み祈りたい。それが私たちの生活にとって一番大事なことだ。それを失うのはもったいない。神聖な愛を粗末にすることだ。キリストの霊の力、聖霊の力に頼って三日間を大切にしたい。

 イエスはその夜捕まえられて苦しみを受け殺されると知っている。知った上で、弟子を見る。3年間いろいろな形で育てた弟子を一人一人見て、愛する。その弟子の強いところ、弱いところ、その弟子の罪まで見る。その弟子の一人から裏切られることも知っている。けれども、ユダも愛されている。イエスはユダに向かって「友」(マタイ26・50)、つまり愛する者と呼びかける。この夜、イエスは私たちを一人ずつ同じ目で見る。同じまなざしで私たちは愛される。私たちのいいところ弱いところ。誰も知らないこと、罪までイエスは知って、私たちを見て慈しむ。このことをヨハネはまず第一に私たちに伝えるのだ。

 この状況で、第二朗読のパウロが書いている聖体の秘跡が制定される。なぜなら、イエスは弟子から離れなければならないと知るが、離れたくないから。イエスが行ってしまって私たちに見えなくなっても、私たちのあいだに残るためにイエスが残した最後のしるしが聖体なのだ。きっと福音書記者ヨハネも驚いたにちがいない。イエスが使った過ぎ越しの祈りの言葉はヨハネも幼い頃から知っていたはずだが、「私の体」「私の血」とイエスが言ったパンとぶどう酒はイエスが私たちのために残した特別なしるしだ。私たちもヨハネと同じように、驚きの心で聖体を受けたい。その夜、弟子たちは聖体がまだわからず、イエスがオリーブの園で悩み祈っても寝てしまい、イエスが捕えられると逃げたり裏切ったりした。聖体をわからせるために、イエスはもう一つのしるしを残した。それはヨハネ福音書だけに書かれているしるし、足を洗うことだ。(ヨハネは聖体については他の福音記者とは違い、受難の前の箇所ではなく第6章で書いている。) 
 洗足式については一つだけ注意しておきたい。教会が洗足式を行う時にはかならず、貧しい人と連帯する。イエスは貧しい者だから、社会の中で一番貧しい人に向けられる愛がイエスを本当に記念することだ。そして、イエスに出会い、イエスに愛される生活を送るためには、互いに愛し合うことがなければならない。