復活節第3主日(A)

イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった(ルカ24・30-31)。

レオン・レルミット「謙虚な人たちの友(エマオの晩餐)」、1892年、ボストン美術館
レオン・レルミット「謙虚な人たちの友(エマオの晩餐)」、1892年、ボストン美術館
 復活節――教会はさまざまな朗読によって、ただ昔の出来事を知るだけではなく、復活して生きているイエスに出会うように私たちを導く。今日の福音朗読は、復活したイエスの非常に有名な物語。表現はドラマティックで、さまざまなテーマを含んでいる。それはルカが80年、90年頃、フィリピにいた頃に書いたものだ。フィリピの教会は、熱心なよい共同体だったが、彼らはイエスに会ったことがない信者、いわゆる第三世代の信者だった。そもそもルカ自身、使徒ではないし、生前のイエスを知らなかった。そのような信者がどうしたらイエスに出会えるか。ルカはそのような信者のために今日の物語を書いたのだ。 
 「ちょうどこの日」。今日は復活節第3日曜日だが、婦人たちが墓に行った最初の日の話に戻る。
 「二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」。二人は使徒ではなく、大勢の弟子のうちの二人だった。そして、二人のうち一人の名前は後で出て来るが、もう一人の名前は出て来ない。先週の「双子と呼ばれるトマス」を私たちの双子という意味で読むことができるのと同じように、もう一人の弟子は私たち自身と考えることができる。生前のイエスに会ったことがない私たちがどうしたら復活のイエスを経験できるか。 
 二人はエルサレムの共同体から離れるところだった。新共同訳では「暗い顔」となっているが、以前の訳では「悲しそうな顔」。「望みをかけて」いたイエスが殺されたことを悲しみ絶望していたのだ。希望していたことはすでに過去のことになった。「もう今日で三日目」。だが、何も起こらない。それで、二人は、「話し合い論じ合って」いた。「話し合う」とはギリシア語でホミレイン。つまりイエスの出来事を解釈すること、その意味を見い出すことだ。しかし、彼らは平和的に論じ合うだけではなく口喧嘩になっていた。イエスの言葉に出て来る「やり取り」のギリシア語原語はアンティバレインで、互いの意見を戦わせること――ちょうど今の私たちが教会の中でよく言い争うように。イエスがなぜ殺されたのか、誰のせいなのかーーそれは初代教会の信者たちの大きな問題だった。「行いにも言葉にも力のある預言者」だったイエスを「わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまった」とは初代教会でよく使われた表現で、今日の第一朗読にも同様の表現がある。 
 このように彼らにとってイエスの物語は失敗の物語でしかなかった。だから、イエスが近づいてもまだわからない。「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」。そして、イエスの言葉に驚く。「あなただけはご存じなかったのですか」。けれども、イエスが見ている物語はまったく違った物語なのだ。それは神の御旨、神の計画だ。二人が完全に見逃していたのは、彼らが目撃した出来事には別の意味があるということ。それで、二人は、女性たちに天使が「イエスは生きておられる」と言ったことさえ見逃してしまった。

 イエスの二人への関わりはすばらしい。イエスはまずはやさしい態度で、彼らの目から見た物語を語るように促す。「どんなことですか」。次に厳しい言葉で叱って、別の目で出来事を見るように回心を促す。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」。続いて、イエスの物語、イエスの聖書研究、イエスのホミリアが始まる。それは教会のホミリア(説教)と重なる。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。イエスの見た神の計画とは、人間を救うために自分の子を送るということだった。 二人の弟子は、メシアがどういうものか理解していなかったが、イエスは神の計画を知った上で命を捧げたのだ。

 ルカが言いたいのは、イエスといっしょに聖書を読むことで、イエスの出来事の意味がわかるということ。逆にイエスの出来事から聖書の意味もはっきりするのだ。こうして聖書を読むことでイエスとその道を知ることができる。後で二人は言う、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。 神の言葉を知ることは喜びの源だ。それによって新しい命が始まる。
 二人がイエスに気づくのは、エマオでいっしょに食卓に着いたイエスがパンを裂いた時。それはミサの動作であり、ミサの根本だ。ミサには挨拶や聖歌などいろいろな要素があるが、ミサはただの儀式ではなく、パンを裂いて渡すのがミサの根本だ。それはキリストの命に養われキリストと一つになるということで、他のいろいろな要素は飾りにすぎない。そしてミサの基準となるのが、復活の日、主の日である日曜日のミサだ。日曜日に神の言葉と「心を燃え」立たせる解釈を聞く(ミサの前半)と、「目が開け」てパンを裂いて渡すイエスに気づく(ミサの後半)。イエスは目には見えないが、ミサで、聖体の形でイエスに出会うことができるとルカは第三世代の信者たちに伝えたかったのだ。 
 すると、イエスは見えなくなってしまう。もうその必要がないから。二人は夕方で疲れていたはずなのに、60スタディオン(約10キロ)の道を引き返してエルサレムに戻り、共同体に合流する。「本当に主は復活して、シモンに現れた」。弟子たちは復活の経験でいっしょになったのだ。 
 復活のイエスが弟子たちに声をかけるのは神殿でではなく、生活の場でだ。庭で(マグダラのマリア)、疑いの時に(トマス)、旅の途上で(エマオの二人の弟子)、イエスは声をかける。日常生活の中でキリストに出会うように福音書は、そして教会は私たちを導く。今の教会にもいろいろな問題があるから、私たちは教会に疲れたり失望したりすることがある。けれども、ミサの言葉と聖体を本当に大切にするなら、キリストに出会えるとルカは言う。日曜日のミサは私たちの信仰の基本だ。第二バチカン公会議の『典礼憲章』にあるように、ミサは「キリスト教生活全体の泉であり頂点」なのだ。今日の日曜日の機会に、私たちの共同体のミサの中でキリストに出会うことを大切にしたい。加えて、神の言葉を解釈する使徒職を授かった人たちのためにも祈りたい。