復活節第4主日(A)

羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。(ヨハネ10・3)

「善き牧者」、ガッラ・プラキディア廟堂(by Petar Milošević from WIKIMEDIA COMMONS)
「善き牧者」、ガッラ・プラキディア廟堂(by Petar Milošević from WIKIMEDIA COMMONS)
 復活節第3主日までは復活したイエスの現れがテーマだったが、その後の復活節主日では、イエスがその新しい共同体の中でどのような役割を果たしているかがテーマ。それを理解するために教会は、イエスが使ったいくつかのイメージに注目する。
 復活節第4主日に使われるイメージは「羊飼い(牧者)」。このイメージは初代教会からキリスト者に親しまれ、カタコンベをはじめ数多くの絵画で表現されている。羊飼いのイメージと言うと、罪人に対するイエスのやさしさを示すルカの福音書が思い出されるが、ヨハネの言う「よい羊飼い」はやさしいだけではない。力があり、決断を下し、生活の基準になる指導者のイメージだ。ヨハネが羊飼いというイメージを使う時、ヨハネ当時の習慣だけではなく、旧約聖書に基づく理解が背景にある。旧約聖書では、羊飼いと羊の関係はヤーウェとその民の関係を示すためによく使われている。神の言葉を聞く預言者は荒れ野で水のあるところへ民を導く。ヨハネはこのような旧約聖書のイメージを使いながら、新しい民がキリストに導かれることを描きたいのだ。 
 ヨハネの言う「よい羊飼い」を理解するためには、いくつかの点が手がかりとなる。まず第一に、「盗人」「強盗」といった厳しい言葉がある。イエスはひどく怒っているようだ。ユダヤ人との争いなど、ヨハネが福音書を書いた当時の状況も背景にある。ユダヤ人たちは、民を神へと導くのではなく、自分の利益のために神を利用している、彼らは神のために働くのではなく、神を自分のために使っているとイエスは批判するのだ。
 第二に、「囲い」と訳されている言葉はギリシア語でアウレという言葉。この言葉は聖書では、羊の居場所を指すためにではなく、神殿の境内にあるいろいろな区画を指すために何百回も使われている言葉だ。そこに門番役がいたようだ。
 第三に、特に注意すべきなのは、今日の話が、生まれつきの盲人の癒しの後の話ということ(四旬節第4主日参照)。それはイエスの生涯で大切な出来事であり、イエスの受難の大きなきっかけとなる。ユダヤ人たちは、盲人の癒しに神の働きを見る代わりに、イエスを神から来た預言者と言った、癒された人を会堂から外に追い出した(ヨハネ9・30-34)。追い出されたその人は、「見失った羊」(ルカ15・4)のように思われるけれども、そうではない。イエスを信じる人、イエスに賭けてイエスに帰依する人は、神の本当の「囲い」に入るということ。その人は、キリストというただ一つの門を通り神の家に入るのだ。
 その囲いに入るということは、一つの掟から別の掟に移るということではなく、そもそも掟から解放されること。律法から解放されて、イエスに従う自由を得るのだ。ヨハネが言いたいのは、イエスを信じて、掟の外に追い出されても自由へ導かれるということ。神は自分の掟を人に押し付けることをしない。神が望むのは愛だから。神は無理矢理に罪人を滅ぼすことではなく、罪人が自由に自分に向かうことを望む。だから、宣教も、不幸で人を脅したり地獄を恐れさせたりして無理矢理に人を引っ張るのではなく、名誉教皇ベネディクト16世がよく言うように、愛の魅力と憧れを感じさせること。

 イエスの新しい共同体はそれまでのユダヤの共同体の延長ではない。つまり、律法の上に築かれる共同体ではない。イエスの新しさを中心にしてイエスを神の子と認め、イエスを旅の基準(「わたしは羊の門である」)として選ぶ新しい共同体だ。教会は、完全な人たち、罪がない、または罪がないと思っている人たち、そして他の人を軽蔑する人たち、自分のよい行いの報いを神に期待する人たちの集まりではなく、イエスを救い主として認め、その顔の上に父なる神の輝きを見た人たちの集まりなのだ。この共同体で大切なのは、自分の行いの完全さより、神から受けた永遠の赦しと神への愛だ。キリストの教会のなかでメンバーを繋ぐのはルールではなく、イエスを通して神から賜物として受けた神の愛。今日の福音書にはこういうテーマが種のようにたくさんばらまかれている。 

 もう一つの種は、呼ぶこと。当時の習慣では、夜、いくつもの群れの羊を一か所に集め、泥棒や動物から守るために岩で囲いをして、一か所だけを囲わずに残した。そこで一人の羊飼いが番をし、他の羊飼いたちは寝に行った。朝になると、他の羊飼いたちが戻ってきて、それぞれ自分の群れの羊に向かって決まった言葉を言う。すると、その羊飼いの群れの羊だけその羊飼いについていく。「自分の羊の名を呼んで」。羊飼いは羊を一頭ずつ呼ぶのだ。つまり、羊飼いと羊には、深い関係がある。ちょうどそのように私たちはみな一人一人個人的にイエスによって救いに呼ばれているとヨハネは言いたいのだ。そして、「連れ出す」。ユダヤ人たちは癒された盲人を会堂から外に追い出したが、その時と同じ言葉が使われている。しかし、イエスが外に出すのは、中に引き入れて奴隷にするのとは逆の意味でだ。イエスは自由を与えて外に出すのだ。教皇フランシスコも、キリスト者の場所は教会の中ではなく、教会の外、つまり世の中だと言う。パパ様は言う、外に出かけなさい、どんなことがあったとしても、と。 宣教は教会の本質の一部なのだ
 最後に、今日の「よい牧者の主日」に教会は特に、教会の中で司牧者の役割を果たしている人と、その召命のために祈る。音楽家が演奏中に音を外すことはありうるが、音楽を愛さないことは考えられない。教皇フランシスコがいつも「私は赦された罪人」と言うように、司祭も完全な人間ではないが、イエスを愛さない司祭はありえない。今日は特に司牧者とその召命のために祈りたい。