主の昇天(A)

あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。(マタイ28・29)

ドミニコ連作のマイスター「キリストの昇天」、1511ー1513年、ゲルマン国立博物館(ニュルンベルク)
ドミニコ連作のマイスター「キリストの昇天」、1511ー1513年、ゲルマン国立博物館(ニュルンベルク)

 主の昇天の祭日——今日のこの日は、独立してあるのではなく、復活祭と聖霊降臨祭とをつなぐ祭日だ。 

 マタイをはじめ福音書記者たちは、言葉で言い表せないことを言い表すために言葉を使う。だから、彼らの言葉は文字通りに物質的に理解するのではなく、神学的に象徴として理解すべきだ。例えば、復活と言っても、ラザロの蘇生のように、以前の命、この世の命に戻ることではない。それはこの世の命より豊かな命、神の命に到達することだ。昇天も同じ。昇天という言葉には上とか下という空間的なイメージがある。しかし、福音書記者たちがこの言葉を使って表現しようとしているのは、イエスが神と特別な関係にあること。「神の子」とも言われる。イエスは、私たちのように造られたものではなく、神と根本的な関係にある方だと。 ニケア・コンスタンチノープル信条で言えば、「神のひとり子、すべてに先立って、父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、作られることなく生まれ、父と一体」だと。だから、イエスは復活と昇天によって、父なる神によって定められた本来の座に戻ったのだ。主日のミサで唱える使徒信条で私たちはこの秘儀を短くまとめて言う、「天に昇って、全能の父である神の右の座につき…」。

 昇天については、使徒言行録や福音書だけではなく、パウロもペトロもいろいろな箇所で書いている。彼らは言う、私たちはイエスを仰ぎ見るべきだと。これはあたり前のことではない。否定して信じないこともできる。これがわかるためには、浄化のプロセス、心の目を清めることが必要だ。復活したイエスが使徒たちに現れた「四十日間」とはそのようなプロセスだ。40日とは実際の日数ではない。40という数字は、アスケーシス(禁欲、苦行)を意味する。使徒たちはそのようなプロセスを通じて、イエスは神の子であると信じるに至ったということ。

 昇天はイエスについての真実であるだけではなく、イエスの弟子である私たちにも深い関係がある。第一に、イエスは天に昇ったとき私たちを天に連れて行ったとパウロは言う(エフェソ4・8)。イエスを信じる人はイエスと同じように神のうちにいるのだ。 

 第二に、教会の誕生。イエスは父なる神から受けた救いのミッションを私たちに引き継がせる。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」。イエスの弟子にするとは、イエスと深い個人的な関係をもつようにするということ。昇天によって教会が生まれるのだ。教会はただの外面的な組織ではない。教会の中で私たちは新しい形でイエスに触れることができる。神の言葉を聞くこと、聖体を拝領すること、秘跡を受けること、司祭職や共同体、貧しい人たちとの出会い――それはすべて、イエスに触れるための媒介だ。キリスト教は直観ではなく、いつも何かに媒介されている。人間は直接に神を見ることはできない。けれども人となったイエスが残した秘跡を通じて、私たちは神を見ることができる。

 第三に、父なる神の右に座ったイエスは、宣教のための力を私たちに送る。イエスは昇天によって教会から離れたのではなく、次から次へ聖霊とカリスマを教会に送り続ける――その恵みが世の果てに届くまで。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」。