年間第13主日(A)

あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。(マタイ10・40)

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「アルルの寝室」、1889年、オルセー美術館所蔵
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「アルルの寝室」、1889年、オルセー美術館所蔵
 イエスがキリストであり主であることを悟り深く経験した復活節の後に、教会はイエスの言葉と行いについて黙想する。それが年間と呼ばれる期間だ。それはイエスが自分の共同体を作り教育する期間でもある。そして、先週から読まれているのは、マタイが記すイエスの四つの有名な説教の一つ、宣教についての説教だ。先週の箇所でイエスは派遣する弟子たちに「恐れてはならない」と言うが、今日の箇所では、派遣のもう一つの面が示される。 
 今日の箇所には一見難しく反発を感じさせるところがある。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」。イエスは天の国が近づいたことを知らせるために弟子たちを派遣するが、それは簡単な任務ではなく、危険や苦難や孤独を伴い、迫害や脅迫に遭い、イエスと同じように殺されることもある十字架の道だとイエス自身わかっている。今日の箇所をまとめたマタイの当時、すでに迫害が始まっていた。しかし、今日の箇所の最後には印象的な表現がある。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。「小さな者」という言葉には、弟子たちに対するイエスの愛情深い心が表れている。この言葉は、今日の箇所全体を照らす言葉だ。 
 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」。この言葉にもショッキングなところがある。しかし、イエスは両親を大切にしなくてよいと言っているのではない。イエスが言うのは、イエスが信仰の基準であり、すべてを判断する基準であるということ。多神教にはさまざまな神々がいて、それぞれの神が何かの役割を果たすが、旧約聖書のヤーウェはそうではなく、自分を燃やし尽くす神であり、愛のジェラシーを抱く。キリスト教にもそういう面がある。唯一の神だからこそ、深い関係をもつことができるのであり、どの神でもいいなら、最終的にどうでもいいことになる。 
 今日の箇所でもう一つ大切なのは「受け入れる」という言葉。それは客を自分の家に迎え入れるということ。今日の箇所には原文で6回出て来る。福音書の他の箇所にも使徒書簡や使徒言行録のさまざまな箇所にも出て来る。
 教会は今日の福音書の箇所の理解の助けとして、預言者エリシャの有名な美しい物語を第一朗読に選んだ。金持ちの婦人はエリシャを家に迎え入れる。彼女は彼をふつうの客として迎え入れたのではない。彼が「聖なる神の人」だとわかったから、階上に部屋を増築して、ベッドとテーブルと椅子とスタンドを備えたのだ(何か居心地がよさそうで、ゴッホが描いた部屋さえ思い起こさせる)。今日の箇所をまとめたマタイはこのような物語を記憶していたかもしれない。イエスも、パウロをはじめとする初代キリスト教の弟子たちもみな、彼らを家に迎え入れた人たちといっしょに宣教した。パウロの手紙のさまざまな箇所に恩人の名前が出て来る。ヘブライ人への手紙にも「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」(13・2)と書かれている。注意すべきなのは、ただのもてなしではなく、神から送られた者を迎え入れること。つまり、移民の受け入れのようにただ人を受け入れるだけではなく、「預言者として」「正しい者として」「わたしの弟子だという理由で」受け入れることが今日の箇所で勧められている。

 「受け入れる」とは「信じる」と似た態度だ。キリスト者とは言葉を聞く人、受け入れる人のこと。「信仰は聞くことから始まる Fides ex audito 」。キリストは肉になった神の言葉だから、キリスト者は、自分の家に神を、キリストを迎え入れて世話をする。神の言葉を自分のうちに受け入れ守って瞑想した代表的な人物がマリアだ。生まれつきキリスト者である人はおらず、キリスト者であることは世襲ではない。信者の両親から生まれた赤ちゃんもキリスト者として生まれるのではなく、神から送られた人を受け入れることからキリスト者としての生活が始まる。 

 キリストを受け入れるのは、実はキリストから受け入れられることだ。パウロは言う、「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」。私たちはミサの時にキリストから受け入れられ、互いを受け入れるように要求される。 
 今日の箇所はこんにちの私たちの信仰生活について何を語っているか。「預言者」、「正しい人」、キリストから送られた人とは、具体的に言うと、教会で教皇や司教、司祭など、さまざまな形で神を伝える人のこと。今日の日曜日は、そのような人たちのことを考えて感謝するよい機会だ。そして、私たちはそのような人たちに、神について話してくれるように頼むべきだ。それが彼らの役割だから。だから、司祭たちの邪魔をしないように遠慮するというのは信者の正しい態度ではない。司祭たちにしなければならないことがあれば別だが、話をしてくれるように頼んで司祭たちに仕事をさせた方がいいのだ。 
 そして、彼らが言うことを受け入れるためには、ドチリタス―学ぶ能力が必要だ。そもそも何かを学ぶためには、自分の知識が十分ではなく他人から学ぶ必要があるという自覚が前提だ。これは当たり前の態度ではない。この態度を信者は育てなければならない。 
 こんにちの私たちの社会は深い関係をもたず表面的外面的一時的だ。長い間いっしょにミサを捧げても、名前も知らず話をしたこともない人もいる。相手を知ろうとすること、相手の言葉に耳を傾けること、お金だけではなく時間を費やすこと、相手が必要としているものに気づくこと、違いを受け入れること――それが相手を受け入れることだ。