年間第14主日(A)

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。(マタイ11・29)

オスナブリュック祭壇画、1370年代、ヴァルラフ・リヒャルツ美術館所蔵
オスナブリュック祭壇画、1370年代、ヴァルラフ・リヒャルツ美術館所蔵

 今日の箇所は有名な箇所。いろいろな解釈があり、もしかしたらマタイ福音書の中で一番有名かもしれない。このページには大切な宝物がある。とにかく目立つのは、イエスの悲しみと喜び。イエスは神でありながら、人間として私たちのように悲しみ喜ぶ。

 今日の箇所はイエスの公生活のはじめのころの出来事。イエスは、彼の言葉を受け入れない古臭いナザレから出て、ティベリアス湖のほとりにあるカファルナウムやベトサイダで布教を始めた。そこでも何か月か経つと次第にナザレと同じように反発に遭うようになる。洗礼者ヨハネも弟子をイエスのところに送って、「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせる。ヨハネもイエスの教えに納得していなかったようだ。それに始まり、ナザレとは違った形だが、反発が次々と出て来る。イエス自身の弟子も何人か、失望しあきらめて離れてしまったようだ。要するに、今日の箇所はイエスの布教の失敗という状況が背景にある。なぜ失敗したか。何よりも、イエスは聞いている人たちに対して厳しい態度をとるということが考えられる。「…する人は災いだ」ということも言う。失敗して失望をあらわすイエス。

 私たちにもそういうことがある。私たちも信者として、両親として、司祭として、宣教師として、課題に一生懸命取り組んで、神について、また一つの理想について話そうとするが、相手に受け入れてもらえないことがある。そんな時、私たちはよく失望して、落ち込む。

  このような状況に対してイエスがどのような態度をとるのかは興味深い。マタイによると、イエスはその時祈りに入る。祈りと言っても、何かの願いをするわけではない。イエスは祈りのうちで、そのような状況を父なる神の目から見ようとするのだ。今の状況にはどのような意味があるか、父なる神の思いはどこにあるのか。挫折を経験したイエスは、いつものように祈りに行くのだ。

 そこで、今日の箇所でもっともすばらしい一つの祈りが出て来る。短いが明解で、美しく、神学的にも重要だ。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」。「父」とは原語でアッバだ。福音書には182回出て来る。181回はイエスが使っており、1回だけ(最後の晩餐の時に)フィリポが「御父をお示しください」と言うが、イエスから習った言葉であり、イエス独特の言葉だ。よく知られているアッバとは父という意味だが、赤ちゃんが使う言葉なので、ラビなど律法学者にとっては神に対して使うことが考えられなかった言葉だ。イエスがアッバという言葉を使ったということは私たちにとって大切な意味がある。例えば神について子どもに教えるとき、アッバという言葉の意味を踏まえて、イエスの心を伝えなければならない。この言葉によってイエスは父なる神と彼自身との関係を示している。

  「ほめたたえます」とは原語ではベラカーで、祝福や感謝を意味し、聖書では大切な言葉だ。このような言葉を使って、イエスは失敗の悲しみの中にもある喜びを示す。それは、何か大切なことを見い出して、天に昇るような喜びの叫びだ。

  「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」。「これらのこと」とは、山上の説教などで示されたイエスの教えであり、人間に対する神の計画のこと。「知恵ある者」とは聖書の知恵文学を連想させる。「幼子のような者」とは「小さい者」ということ。「賢い者」と「幼子のような者」との対語には注意しなければならない。知識があるかどうかという外面的なことではなく、内面的な態度のこと。学者であっても、神の言葉を学ぼうとして「幼子のような者」であるかもしれないし、逆に本を読まない人も、自分の考えにこだわって「賢い者」のようであるかもしれない。イエスがこの言葉で言おうとするのは、自分の考えに満足し、他に何も探し求めず、新しいものに目を向けない状態、つまり、自分に閉じこもり神に心を開くことがない状態の人のことだ。だから、イエスは外面的な身分のことではなく、内面的な心の状態について言っているのだ。

 教皇フランシスコは、イエズス会員は未完結で開かれた考え方をする人でなければならないと言っている。つまり、教義に書いてあり、教科書で習ったことよりも、神はいつも向こうを行くと考えるのだと。つまりこの言葉でイエスは自分の道を示すとともに、同じような問題にぶつかる私たちにも進むべき道を教えている。彼が見い出したのは、父なる神がその賜物を人間に与える時に、人間の自由を尊重もするということ。神は誘うが、押し付けない。だから、イエス自身が失敗と感じたことは外面的なことにすぎない。人を信頼すること、人に忍耐し暴力を振るわないこと(「柔和」!)、人を毒麦扱いしないこと――それはイエスの教えのうちにいつも出て来ることだ。要するに、作物の成長を見守る百姓のように、無理せずにその時期を待つこと。私たちも失敗して落ち込む時も、神を祝福し、信頼を忘れず神に任せて忍耐するようにイエスは教えてくれているのだ。

 今日の箇所の最後にも大切な言葉がある。それはこの箇所を照らす言葉だ。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。すばらしい言葉で、私たち誰もが言ってほしいことだ。まさにイエスのやさしさ、「柔和」と「謙遜」を感じさせる。メシアであるイエスは、第一朗読にある通り、「高ぶることなく、ろばに乗って来る」者なのだ。  「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。軛とは、今の日本の生活には見られないが、牛などの動物を対で、同じ速度で働かせるためのもの。牛の軛は非常に重い。当時は、律法は軛であり、ファリサイ派や律法学者のような権力者は、民を動物のように奴隷として支配するための道具として律法を使った。それに対して、イエスは厳しい言葉を口にしている。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23・4)。律法学者が抱かせる、独裁者のような神のイメージと、神の掟についてのゆがんだ考え方に対してイエスはきわめて厳しく、まったく逆の、独特の考えを抱いている。イエスはここでその言葉を使って、「わたしの軛」と言う。ただし、その軛は「負いやす」いと言う。弘法大師が遍路とともに歩くことを同行二人と言うが、「わたしの軛を負う」とは、イエスを基準として、イエスと同じように生きる勧めだ。「わたしの軛」とは「わたしの掟」のこと。イエスの掟は、神から愛されて、神と隣人を愛することだ。「私から習いなさい」とは、そのような掟、神の御心をどのように行うかをイエスから習うということ。つまり、イエスといっしょに、イエスのような態度で、父なる神の掟を生きること。  2011年のバチカンのコロッセオでの十字架の道行きでは、アウグスティヌスのヨハネ福音書注解2・2より「十字架から離れるな。離れないなら、十字架はあなたを背負う」という言葉が引用されていた。律法学者やファリサイ派は「重荷を」「人の肩に載せ」ていた。つまり、人に自由を与える代わりに、人を奴隷にしていた。掟を網のように人にかけていたのだ。そして、その掟に縛られて、神との関係について議論する状態だった。それに対して、イエスは、彼自身といっしょに彼自身のように掟を実現することを勧める。その荷が「軽い」のは外から動かされるのではなく、イエスが心に吹き込んだ聖霊によって内から動かされるから。その掟は愛の要求だから。 

 「柔和」とはヘブライ語のアナウィンという言葉に相当する。アナウィンとは、もっとも弱い、見捨てられた、何もない、神だけに委ねられた、貧しい、ということ。それによって本当の喜びが見い出されるのだ。結局のところ、イエスの言葉、神の言葉、聖書を理解するのは、「賢い者」ではなく、愛を込めてその言葉を受け止めた聖人なのだ。

 イエスの悲しみと喜びを記す今日の箇所は、私たちにとって大きな意味がある。失敗を経験したイエスが祈りのうちに見出したこと――実はイエスはいつもそうで、その道を最後まで歩むのだ。