年間第15主日(A)

ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。(マタイ13・8)

JESUS MAFA「種撒く人のたとえ」、1973年(http://diglib.library.vanderbilt.edu/)
JESUS MAFA「種撒く人のたとえ」、1973年(http://diglib.library.vanderbilt.edu/)

 山上の説教と弟子の派遣に続くマタイ福音書第13章。それは七つのたとえが出て来る有名な章だ。イエスのたとえをマタイは自分なりの形で編集する。そこでは「天の国は次のようにたとえられる」という表現がよく使われる。天の国は遠い未来のことではなく、私たちが正しい態度で生きるなら、今ここで始まるとマタイは言いたいようだ。

 イエスのたとえ話はとても美しい。一見素朴だが、意味深長で、深く聞くことを要求する。イエスはすぐれた説教者で、心に触れる例を使ったのだ。そのたとえは彼の神性からとったものではなく、周りの自然についての注意深い観察から得られている。空の鳥と野の百合、雀、太陽、雨、雲、夕日、稲妻、いちじくの木とぶどうの木、麦の穂、アザミ、野良犬、木の虫と枯草、カラス、魚、羊、狐、サソリなど。

 今日の箇所には、種と種撒く人のたとえが出て来る。他の共観福音書にも出て来るたとえで、私たち信者には親しまれたイメージだが、読めば読むほど驚くべきニュアンスが出てくる。今日の典礼はこのたとえ話のポイントを示すために、第一朗読にイザヤ書の一つの箇所を選んだ。それは文学的にも美しい箇所で、もしかしたらイザヤ書でもっともすばらしい箇所かもしれない。それによると、種とは神の言葉だ。その言葉は、私たちに語るだけではなく、神の力を示し、神の子の名を意味する言葉であって、世にあるすべての美しいものの最初にあって創造する言葉なのだ。

 今日の福音書の箇所をよく見ると、大きく二つに分かれている。第一の部分は、イエス自身に遡る。第二の部分は、イエス自身の言葉以外に、教会とマタイが編集したところ。イエスの言葉についての初代教会の反省を表している。その難しい言葉をどう理解したらいいのか、教会の反省を示す部分だ。

 第一の部分の主人公は、種撒く人。それは父なる神ご自身だ。イザヤがすでに注意しているように、神はその言葉によってすべてを創造する。だから、種とは、世のはじめにあって、創造する力のある神の言葉のこと。このたとえでイエスが私たちに語る父なる神は遠い神ではなく、私たちのそばで力強く働いている。それは、イエスによって働く神だ。

 種蒔く人のたとえは私たち現代人からすると、何かピンと来ないところがある。もし主人公が神なら、なぜ種をこんなに闇雲に蒔くのか。当然のことだが、イエスは、当時の百姓たちのやり方を参考にしている。当時は今とは違い、土を耕してから種を撒くのではなく、種を蒔いてから鋤で種に土をかけていた。今から考えると、不合理なやり方だ。つまり、イエスはまず、当時の農業の方法を前提としている。

 しかし、それだけではない。イエスが種蒔く人の態度で示したいのは、もう一つのこと。だから、このたとえは私たちにも大切な意味がある。つまり、善人にも悪人にも雨を降らせる父なる神はどんな人(土)にも、キリストによって自分の言葉(種)をもたらす。つまり、ペトロも言うように、神は人を選ばないのだ。神は、善い人だけではなく、あらゆる人に自分の言葉を力強く届ける。そして、どんなことがあったとしても、反発するどんな悪い状態(土)があったとしても、どんな災いや問題(雑草)があったとしても、イザヤが暗示するように、必ず最後にその言葉(種)が実ることをイエスは何よりも言いたいのだ。別な言葉で言えば、神は人間に対して限りない信頼を寄せている。宣教の難しさ、イエス自身、そしてイエスの弟子がぶつかる困難にもかかわらず、神の国は必ず完成する。

 このことは私たちに何を言おうとしているか。たとえば、ルカが報告するように、悪い生活を送った強盗も、十字架上の最後の瞬間でイエスから癒しを得て天に入ることができたことがそうだ(23・42ー43)。または教会の中にある、さまざまな聖性の歴史が思い出される。このたとえの最後に、父なる神の言葉の力が示唆されている。すべてのものの中で最後に残るのが父なる神の言葉なのだ。「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40・8)。だから、マタイがイエスの言葉について私たちに言うのは、注意しなさい、この言葉は他の言葉と違う、他のつまらない言葉と違って、この言葉に対しては特別な聞く態度が必要だということ。

 第二の部分は、イエスの言葉についてのマタイの教会の反省。ちょうど説教のようなもので、どのようにその言葉を聞くべきかを教えようとする。初代教会の信者たちがイエスのこのたとえに対してどのような態度をとっていたかがわかる。この第二の部分は、こんにちの私たちにも特別な意味がある。

 まず、神の言葉は、すべての人に対して変わらず同じ形で与えられている。それに対して、その言葉に対する態度は、拒否する人から受け入れて百倍の実りを結ぶ人までさまざまだ。イエスの言葉に対する態度は、4つのグループに分かれる。

 第一のグループ。その人たちは神の言葉を聞くが、言葉は心の中には入らず、悪魔がその言葉を奪ってしまう。種は道の上に落ちて鳥が食べてしまう。当時は今のような道ではなかったが、道の上を人が何度も通ると、 土が固くなり種を受け付けないようになる。それはこんにちの私たちの世界に似ている。マスコミやネットにさまざまな情報があふれ、何が正しいか正しくないか、さまざまな意見によって私たちは振り回される。私たちは洗礼を受けても、世間的な価値観に流される危険がある。キリスト者であるためには、キリストについておおまかに知るだけでは十分ではなく、イエスを深く知り、イエスに深くつながらなければならない。

 第二のグループ。石の上に落ちた種は根を下すことができず、日に焼かれて枯れてしまう。それは感情的に好きになるが、すぐに忘れてしまう人のこと。例えば、洗礼を受けてしばらくしたら、教会から消えてしまう人がいる。教会に来て活動をしていても、イエスが中心ではないなら、十分ではない。種のように忍耐強く成長しなければならない。引き続き、知識を深める必要がある。そして知識だけではなく、キリスト教的態度の訓練をしなければならない。例えば、長いあいだ他の信者とのあいだに喧嘩が続いて、赦し合えない状態なら、キリスト信者としての基本が欠けているのだ。

 第三のグループは、茨にふさがれる。教皇フランシスコは最近よく、世俗化という言葉を使う。つまり茨とは、世俗的な価値観や世俗的な生き方のこと。何に重きを置くかが間違っているのだ。

 最後の、第四のグループは、「良い」というより「美しい」土地に落ちる。実るとは、外面的な知識をもっているだけではなく、それぞれの形で人に赦しを与えることができるようになるということ。「百倍」という実りの大きさについてはイエスは「からし種」という別のたとえも使う。イエス自身、弟子の成長、キリスト者の霊的生活の深まりに驚くのだ――我が子が赤ちゃんから大人になるのに驚く母親のように。詩編1にも、流れのほとりに植えられた木が季節ごとに実をつけるとある。

 そのためにはしかし、その言葉に対して私たちの側に受け入れる態度が必要だ。それは具体的に言うとどのような態度か。それは騒ぎを抑えて、沈黙し、その沈黙の中で、他の邪魔になることを消すこと。例えば、自分が足りないものである自覚が必要だ。自分には何もかもわかるという態度ではイエスの言葉はわからない。エゴイズムを捨てて、神に場所を与えること。神が私たちのために働いていることに信頼すること。心を清めて、内面的な静けさを保つこと。要するに、祈りの態度が必要だ。

 今日のたとえについて思い出されるのは、司教や司祭、カテキスタなど、教会の中で神の言葉に対して責任をもつ人のこと。マタイが私たちに思い出させるのは、他のものを混ぜないで純粋な種を蒔くこと。そしてついでに、イエスのように困難に負けず、種を撒きつづけること。司祭の最大の役割は聖体と神の言葉への奉仕であり、そのために深い愛情と、細やかで謙遜な準備の仕事が必要とされる。神の言葉を伝えるのは大きな喜びであると同時に大きな責任があるから、習慣に流されて説教をすませてはならない。そのような難しい役割のために、信者の祈りも必要だ。司祭職については教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』第三章Ⅱ及びⅢ(135~159)にすばらしいページがあるから、私たちはそれを共有すべきだ。

 神の言葉に責任をもつ人だけではなく、聞く人の準備も同時に大切だ。たとえば、教会のミサの時間を守らず途中で来る人がいる。私たちは聞く人にならなければならない。聞くことを学ばなければならない。聞くことは簡単なことではない。どのように神の言葉を聞く準備をするか、どのように霊的生活を育てるか、どのように神の言葉について反省するか、考えていかなければならない。それは抽象的なことではない。私たちは、騒がしい一般の会話から急にミサに移ることはできない。いろいろな具体的なことが考えられる。

 今日のたとえはさまざまな時代に当てはまるだけではなく、私たちの共同体、まさに今日この日の私たちの共同体にも当てはまる。日曜日ごとに神は、私たちの心に種を撒く――信頼し忍耐し、たゆまず惜しみなく。そして、例え話のように私たちの共同体でも、ある人たちは100倍、ある人たちは60倍、ある人たちは30倍の実を結ぶのだ。