天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。(マタイ13・44)
今日の福音書の箇所を理解させるために教会は第一朗読にソロモンの一つのエピソードを選んだ。ソロモンは、父ダビデの王座を継いだときはまだ若く、ヤーウェの神を愛し父に忠実だったが、信仰はまだ弱かった。特に、異なる民族の女たちを通じて、他の国の宗教とその儀式に対して関心と憧れを抱いていた。はじめにある「ギブオン」の丘はちょうど他の神を拝む場所だった。まさにその場所にいたある夜、ソロモンは夢の中で神の言葉を聞いた。神は彼の弱さを叱りはせず、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言った。若いソロモンは、自分の民の数もわからないと言って、「聞き分ける心」を願った。それは、他のさまざまな声の中で神の言葉を聞き分ける知恵であり、そのことが今日の福音を理解するために大切だ。長寿も富も敵の命も求めなかったソロモンを神は褒めて、知恵を与えた。ソロモンは旧約聖書では特に知恵のある者とされ、雅歌やコヘレトの言葉、箴言といった繊細で美しい書物も彼が作者と考えられているが、それはこのエピソードのためだ。
福音朗読は、マタイ福音書の第13章の最後の箇所。3つのたとえが出て来る。最初の2つのたとえ、宝物のたとえと真珠のたとえは、双子のたとえとよく言われる。偶然見つけるか探し求めるかの違いはあるが、一枚の紙の表裏のようにセットになっている。
宝物のたとえ。古代世界には、失われた宝物を見つける話がよくあった。銀行もなかった時代、戦争が起こると、金銀といった宝物を地中に埋めて、戦争に行ったが、死んで戻らなかったため、宝物が行方不明になったといった話だ。古い土地であるナザレにもきっとそういう話があっただろう。イエスは何かの事件にヒントを得たのかもしれない。
マタイはイエスのこのたとえを伝える時に、宝物が具体的にどのようなものだったかを書いていない。このたとえのポイントは、真珠のたとえとも共通するが、喜びと、その後出かけてすること。つまり一生に一度のチャンスを逃さずに、それにすべて賭けるということ。
真珠も、金銀と同じく、昔は貴重なものだった。イスラエルだけではなく、インドでもそうだ。例えば仏教美術でも真珠が使われる。現在のように養殖技術がなかった時代、真珠はとても高価なものだった。
宝物の場合は突然に、真珠の場合は長い間探した後に、美しく価値のあるものを手に入れる一生に一度のチャンスに出会った。イエスが言いたいのは、神の国の知らせはそのようなものだということ。神の国とは、イエスの言葉だ。教父たちが解釈するように、宝物とは神の言葉であるイエス自身なのだ。神の言葉であるイエスに出会うのは、人間にとって最大のチャンスだ。何よりもその出会いは大きな喜びの原因だ。イエスに出会う人は、ルールを教える法学者でも審判者でもなく、人生に意味と喜びを与える方に出会う。イエスに出会うことで、隠れたもの(「畑に宝が隠されて」)、パウロが言う、人間の目が見ることができないものが明らかにされる(コロサイの信徒への手紙1・26)。神の神秘こそ喜びの源なのだ。これが第一の結論だ。
そして、第二の結論は、「出かけて行く」ということ。イエスに出会うと、人生は以前と同じではない。イエスに出会うとは、神の目ですべてのものを見ること。自分の限界、自分の苦しみ、さらには自分の罪を越えて、神の言葉は、人間が見ることができない美しい世界を現す。パウロも言う、「
わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れた」(テトス3・4)。キリスト者は、すべてをそこにかける。
第一朗読から考えると、キリストは、キリスト者の知恵だ。善悪、つまり神の御旨を聞き分けることができる知恵とはキリストだ。キリストとは肉になって私たちのそばに来た神の知恵なのだ。「知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに/自宅の門前で待っている知恵に出会う」(知恵の書6・14)。それは、私たちのうちに神の国が生まれていくことに気づく知恵だ。神の国は死んでからのことではなく、今この世で生きているうちに始まるのだ。
この2つのたとえのあとに、もう一つ小さなたとえが続いている。それは網のたとえだ。よく見ると、先週の毒麦のたとえと同じことがテーマになっている。網の中に、善いものと悪いものが混ざっているが、最後に神がそれを分ける。だから、先週と同じく、忍耐と神への信頼がテーマだ。どのような災いが混ざっていたとしても、最後は神の永遠が成功する。
今日の箇所の最後に、少し唐突な言葉がある。「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」。これはマタイが彼の福音書について言っていると聖書学者は考える。芸術家が作品にサインを入れたり、ミケランジェロやラファエロが作品の中に自分の姿を描くように、マタイはここで、自分の仕事について書いていると。つまり、マタイはその福音書で、「学者」のように、イエスから聞いた言葉の他に、初代教会の黙想を合わせているというのだ。
要するに、マタイは今日の箇所で、私たちがキリストとの出会いをやり直すことを勧めている。その出会いは私たちの生活を変えることができ、聖アウグスティヌスが言うように、安らぎと喜びを私たちにもたらすことができる。