年間第25主日(A)

このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。(マタイ20・16)

ぶどう園の労働者のたとえ話(『エヒテルナッハの黄金福音書』、11世紀)
ぶどう園の労働者のたとえ話(『エヒテルナッハの黄金福音書』、11世紀)

 「ぶどう園の労働者」のたとえ話は、どんな注釈書でも難しいと言われる。よく知られたたとえ話だが、よく見ると、納得しにくいところがある。もちろん何も気づかずに読む時もあるが、むしろショックを受けるべきだ。イエスが言っていることは私たちの考え方と違う、そのことに気づくことがとても大切だ。教会は今日の第一朗読として、イザヤ書の有名な箇所を選んだ。そこでイザヤが伝えるヤーウェの言葉は、「わたしの思いはあなたたちの思いと異なる」「天が地を高く超えているように」。つまり、神の考え方は人間の常識と違うのだ。マタイが伝えるイエスの言葉を大切にする私たちも、その違いに注意すべきだ。

 聖書にはあらゆる箇所に、ぶどう園が出てくる。ぶどう園はユダヤ人にとって、ぶどう酒を作るぶどうが収穫できる大切な場所だった。ぶどう酒にはは、恵み、喜び、愛、神との関係などさまざまな象意があり、ぶどう園はイスラエルの民を意味する。マタイが「天の国は次のようにたとえられる」という言葉で始めるように、このたとえ話は、ただの道徳的な教えではなく、「天の国」、神の世界、神の考え方を理解させるためにイエスが考えたたとえ話なのだ。伝統的にぶどう畑の多い西洋では、ぶどうの収穫の季節は大騒ぎだ。ぶどうが実ったのに収穫が遅れて雨や霰が降ると、ぶどうがだめになり、よいワインができない。だから、友達や親戚、雇い人など、いろいろな人を集めて収穫する。

 そのとても大切な季節に、そのとても大切な仕事のために、たとえ話の主人はまだ涼しい早朝6時に出かける。そして、当時の習慣であり最近までそうであったように、広場に行き、仕事を待っている人を雇って、ぶどう園に来てもらう。そしてイエスが言うには、主人はそのあと、9時、12時、3時、5時と出かける。最初の人たちとは、一日1デナリオンと契約。それは当時の日給だった。

 今日の箇所の最後の文章は教訓のようだ。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。実は、今日は読まれなかったが、今日の箇所の20章冒頭の直前、19章の最後の文は、これと同じだ。ぶどう園のたとえ話は、同じ一つの文にはさまれている形になっている。この文が、たとえ話を理解すべき視点であり、マタイが私たちに示すヒントなのだ。

 大切なのはたとえ話の結末。主人は監督を呼んで、労働者一人ひとりに1デナリオンを支払わせるが、「最後に来た者から始めて」。なぜか。もし最初の人たちから支払ったなら、1デナリオンは約束通りだったから、彼らは受け取って行ってしまっただろう―主人(イエス)が言いたかったことに気づかずに。最後の人たちから始めるのはわざとだ。その結果、最初の人たちは最後の人たちが1デナリオンをもらうのを見て、自分たちはもっとたくさんもらえると期待する。「まる一日、暑い中を辛抱して働いた」、ほとんどの仕事をしたのだからと。そして、彼らは不平を言うのだ。福音書では、いろいろな重要な人物がイエスのやり方に不平を言う。例えば、放蕩息子の兄は、同じ考え方をして不平を言う―自分は数年間(一日ではなく!)父親の畑で働いているのに、娼婦と遊んで父親の財産を使い果たしたこいつが帰ると、こんな祝宴をするなんて、と。兄は怒って家に入ろうとしなかったとルカ福音書にある。マルタもそうだ。マリアがイエスの足もとに座っていると、マルタが怒ってイエスに言う、手伝うように言ってくださいと。他にも、ファリサイ派などがよく不平を言う。要するに、不平を言うのは、考え方の違いがあるからだ。イエスの言葉を聞きイエスのよい行いを見ても、最終的に受け入れられないのは心の中に邪魔があるからなのだ。直前の19章で、すべてを捨てイエスに従った報いをペトロが尋ねるのも同じメンタリティだ。 

 今日のたとえ話の最後で、不平を言う労働者たちに主人は言う、「わたしの気前のよさをねたむのか」。「ねたむ」は、原文では、目が病んでいるという表現。聖書では、目は心を意味するから、この人たちは間違った考え方をしているということ。第二朗読にあるように、何か一つ悪いことをしたのではなく、根本的な考え方が間違っているのだ。このたとえ話のポイントはそこにある。イエスが言うには、神と人間のあいだには根本的な考え方の違いがある。私たちも、洗礼を受けて、キリスト者になり、教会に通い、公共要理を勉強し、祈りやロザリオ、聖体礼拝をしたりする。けれども、私たちの心の奥にある考え方はどうか。私たちのすべての行い、すべての活動に影響する考え方はどうか。今日のたとえ話はイエスのカテキズムであり、イエスはそれで、父なる神の考え方を教えてくださるのだから、自分の考え方と比較するよいきっかけになる。

 主人が出かける時刻、6時、9時、12時、3時、5時はユダヤ人にとって祈りの時間だった。キリスト教の聖職者も今でもそのような祈りをするように勧められている。祈りはふつう私たちが神に向かってする。ところが、このたとえ話では逆に、何か頼むのは神だ。神が私たちに頼んで私たちを迎えに来るのだ。教皇フランシスコも、神を求めるよりも、神が私たちを求めていることに気づくことが大切と言う。

  最初の人たちの間違いはどこにあったか。彼らの考え方の基本は利益、有用、功利だ。何かよいことをしたらよい報いがあると考える。主人のために働いたから金をもらえるはず、他の人たちより働いたからもっともらえるはずと考える。これはユダヤ人の考え方の危険だった。ユダヤ人は他の民よりも先に神に呼ばれる経験があり、預言者によって神と契約をし、神と特別な関係ができた。しかしながら、彼らようは神との関係を勘違いして、神に対して自分が奴隷であるように考えたのだ。詩篇にも、掟を守るからその報いをもらう資格があると書かれている。それで、ユダヤ人たちは、役に立つことだけを大切にしがちだった。イエスはそのような危険のために、このたとえ話を話した。イエスが言うのは、そうではない、そのような考え方では、愛がどういうことかわからないということ。なぜか。たとえば、役に立たない人もいる。それはこんにちの社会にもあてはまることだ。たとえば年をとって弱った人や病気の人だ。こんにちでは、そのような人たちが邪魔にならないように社会の隅に追いやる。もっと広げると、出生前診断で病気がわかると、中絶を行う。幸せを口実にしたとしても、同じメンタリティが根本にある。最近、イギリスの赤ちゃんチャーリーが西洋諸国で大きな話題になった。裁判で、治らないから生きる価値がないという判決が出て、両親が反対し、大勢の人が反対し、パパ様もトランプも反対したが、結局、安楽死著地を施された。これはたいへんな事件だ。裁判官が人の命を終わらせたことになる。これは珍しいケースだが、世界では毎日中絶が行われている。堕胎がはじめて法律で認められたのは戦後の日本だ。どれだけ赤ちゃんが殺されたか。最近、安楽死が大きな問題になっている。あるカトリック国でも、いくつもの病院を経営する修道会が、バチカンに反対されながら、安楽死を行っている。任意でなくても安楽死させていいと。恐ろしい考え方だ。イエスはこの問題について語っている。

 今日のたとえ話では、一日の報酬が出てくるが、それは小さな問題に思えても、最終的に大きな問題だ。最初の人たちの考え方には残酷なところがある。一日1デナリオンをもらえなければ、生活ができないから。利益中心の考え方は神との関係だけではなく、他人との関係をもだめにするのだ。

  詩篇130にもあるが、私たちのうち誰が神に向かって、私はこれだけのことをしたから私を救いなさいと言えるだろうか。先週の日曜日の箇所にあったように、私たちはみな神の前で借金だらけの状態だ。イエスが言いたいのは、仕事を得るのは神からということ。神の世界で働くのは、もうけるためではなく、いわば「特権」で、私たちが救われたから、愛されたから。だから、イエスが、そしてイエスを通じて父なる神が言うのは、あなたは誰にも雇ってもらえなかったとしても、価値のない人間ではないということ。金がなくても、病気でも、人から見捨てられても、いろいろな理由から迫害されても、刑務所に入れられても、あなたが神から愛されていることを思い出しなさい。あなたの本当の価値はそこから出てくる。

 今日のたとえ話は、私たち一人ひとりの問題だ。放蕩息子のたとえ話と同じく、このたとえ話に結末はない。私たちはそれぞれの生活でこのような教えを生きるように勧められている。