年間第27主日(A)

「言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」(マタイ21・43)

画像は、ユーゲン・ブルナンド「邪悪な農夫たち」(『さまざまなたとえ話』1908年)

 イエスはぶどう畑(ぶどう園)について好んで語る。細かいことも出てくるから、ぶどう畑を実際に知っていたようだ。小さな村では、秋になると、親戚や友だちを呼んで刈り入れの作業をする。子どもたちも小さな籠を手に、ぶどうを摘んだり食べたり。ぶどうの果汁の匂いが漂い、騒いで歌ったり踊ったり。喜びと祭りの季節だ。
 ヨハネ福音書15章でイエスは、自分と愛する弟子たちとの親しい関係を示すたとえとして、ぶどうの木を使う。父なる神はぶどう畑の主人(15・1「農夫」)だ。雅歌にもぶどう畑がよく出てくる。ぶどう畑は愛の喜びを連想させる場所なのだ。ユダヤ人にとって、ぶどう畑はまず、美しさや実りなど人に捧げられたはじめの創造を連想させる場所だ。それから、特に神との契約を連想させる場所だ。そして、神が自分の民を世話することを連想させる場所だ。実りのために、石をとり除いたり、垣根や見張り塔を作ったり、植物のための農夫の世話を連想させる。そのために選ばれたのが第一朗読のイザヤ書の、神とイスラエル(女性名詞)とのあいだの愛の歌だ。
 今日の箇所は、「ぶどう園」を舞台にする3番目のたとえ話だ。しかし、このたとえ話には暗い影がある。しかも、その影はイエス自身の生涯にかかる影なのだ。このことは、今日のたとえ話を理解するために思い出すべきだ。このたとえ話を作ったイエス自身がその時期に劇的な瞬間を迎えていた。
 このたとえ話はイエスがエルサレムに入ってからのこと。エルサレムの人々はイエスをメシアとして迎えたが、宮清めの事件のあと、祭司長や民の長老たちが怒って、イエスを尋問した―どんな権限でこのようなことをしたかと。そして、激しい議論になった。そこで、先週読んだ二人の息子たちのたとえ話が出て、その最後にイエスの厳しい言葉があった。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。今日のたとえ話はこのような脈絡で出てくる。
 このたとえ話では、イスラエルの神が民に示す愛の物語が描かれている。私たちにとってイスラエルは遠いが、私たちキリスト者も気をつけなければならない。新しい民も古い民のようになる危険があるから。祭司長や民の長老たちは自分たちが神の友と思っているが、イエスによると、神の敵になって、神が民に示す愛を邪魔する。彼らは、主人(神)が旅に出ているあいだに、ぶどう畑の世話をする任務を受けたのに、自分がぶどう畑の主人だと思ってしまったのだ。「収穫を受け取るために」―この言葉には少し注意すべきだ。預言者イザヤが言うように、全世界は神のものだから、神は生贄を求めない。神が求めるのは、民に対する憐れみや愛の行いだ。だから、祭司長や長老たちは、神の愛を民に示す任務を受けたにもかかわらず、自分のためにぶどう畑を使ったのだ。
 このたとえ話で、神は何度も預言者たち(「僕たち」)を送る。それは彼らの間違いに対する神の忍耐を意味している。しかし、彼らは頑なで、預言者たちを捕えるだけではなく、殺したりもした。神は最後に我が子を送る。我が子を送るのは、民に対する最大の関心であり、最高の愛だ。キリスト教が言うのはそれだ。ところが、彼らは「これは跡取りだ」と言う。彼らにとっては父なる神の財産を自分のものにする最大のチャンスなのだ。跡取りを殺せば、自分たちが主人になると考えた。つまり、イエスが、そしてのちにマタイが言おうとするのは、彼らがイエスが跡取り、神の子だと知っていたということ。知っていたが信じずに、冒涜の罪でイエスを訴え、エルサレム(「ぶどう園」)の外に追い出して殺したのだ。マタイや初代教会がイエスの言葉の意味を理解したのは、イエスの復活のあとだ。けれども、イエスはすでに自分の十字架が近づいていると理解していた。

 このたとえ話の最後にイエスは祭司長や民の長老たちに尋ねる。「ぶどう園の主人[は]…この農夫たちをどうするだろうか」。彼らは言う、「その悪人どもを…殺し、ぶどう園は…ほかの農夫たちに貸すにちがいない」。イエスはもう一つのたとえ話でもう一つのことを私たちに教える。神は殺さない。神は悪人に復讐しない。罪人は神から愛されている。神が望むのは、罪人が回心して新しくなること。そのために、神は我が子を送ったのだ。
 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。これは神の建築の指針だ。神が選ぶのは力や権力ではなく、見捨てられた者だということ。神の僕は小さな者。イエスの復活後、キリスト者、特にマタイとマタイの教会はこのことを理解した。ペトロをはじめとするイエスの弟子たちも、イエスが生きていた時はそれを理解するのに苦労した。神の国を作る人は、完全な人、他人より知識がある人、聖性を誇る人ではなく、罪が赦された人なのだ。これが新しい「農夫」の条件だ。だから、神の国のために働くのは、回心した罪人、神の憐れみを浴びた罪人だ。神の憐れみを受け、そのやさしさと喜びを経験し、人と分かち合いたい心をもっている人だ。それを忘れない人だけ、イエスの愛と平和を世にもたらすことができる。
 だから、今日のたとえ話の中にもイエスの啓示が含まれている。ミサを捧げる時に私たちは、愛され赦されて人を受け入れることを記念する。ミサの中心は私たちの聖性ではなく、私たちが受けた赦しなのだ。そして、ミサだけではなく、キリスト者の生活全体がそうであるはずだ。

 イエスは祭司長や民の長老たち、ファリサイ派の人々を厳しい言葉で批判する。その言葉はユダヤ人だけに向けられたものではない。福音記者たちがイエスに厳しい言葉を語らせるのは、以前の宗教(ユダヤ教)にあった悪い特徴が新しい宗教(キリスト教)の中で芽を出さないため。つまり、イエスが批判するように、ユダヤ教には3つの危険性がある。1.傲慢。自分が人よりまさっていると考えること。2.功績主義。自分の行いで救われると考えること。本末転倒してはならない。神は寄付の金額や祈りの数で喜ぶわけではない。言葉数が多ければ祈りが聞き入れられると思っている異邦人のように祈るなとイエスは言う。3.権力構造(ヒエラルキー)の危険。だからこそ、上に立ちたい人はすべての人に仕えなさいとイエスは言う。
 今日の朗読箇所は43節で終わる。しかし、読まれなかった45節によると、祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエスが自分たちのことを言っているとわかったが、回心しなかった。群衆を恐れてイエスを捕えることはしなかったが、その機会を待っていた。
 愛に返答(「収穫」)がなく失望する神の悲しみは、ユダヤ人のせいだけではない。それは私たちのせいでもありうる。たとえば教会を自分の利益や力のために使うことがある。1テモテ6章には、高慢、利得、金銭欲といった罪について書かれている。神の国は、ユダヤ人から取り上げられたのと同じように、私たちの手から取り上げられる恐れがある。もっとも、このたとえ話は、恐怖を感じさせるだけではない。却って、イエスを信じる人にとっては、私たちにどんな弱さや罪があるとしても、神の愛はそれにまさるのだ。