年間第29主日(A)

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22・21

ピーテル・パウル・ルーベンス「貢の銭」、1612年頃、サンフランシスコ美術館所蔵
ピーテル・パウル・ルーベンス「貢の銭」、1612年頃、サンフランシスコ美術館所蔵

 先週の婚宴のたとえ話を聞いても、祭司長たちやファリサイ派の人々は回心しなかった。彼らは、イエスを処分すべき危険な人物と考えて、罠にかけようとする。そして、何も知らないふりをして自分の弟子を送る。ヘロデ派の人々といっしょに、というのは不思議な話だ。ファリサイ派とヘロデ派は敵対していたからだ。ファリサイ派はローマの圧迫を嫌っていたのに対して、ヘロデ派はローマの味方をしていた。しかし、ファリサイ派とヘロデ派はイエスを殺す目的で一致した。そして、イエスは群衆に人気があったが、その前でイエスに恥をかかせようとしたのだ。
  彼らは下手に出てイエスに言う、あなたは人を恐れず真実を言う人だと。昔も今も独裁者の前で自分の意見を言うことは危険だから、それを避けることが多いが、あなたはそれをしないだろうとイエスを持ち上げる。
  ファリサイ派の人々が考えた罠とは、民にとって切実な税金の問題だ。当時は、各種の税(土地税、収穫税、取引税、職業税、人頭税など)を合わせると全収入の40−50%が税金として徴収されたようだ。収穫の量にかかわらず畑の広さなどに応じて決められた量の収穫物を軍隊が徴収したから、飢饉の時など農民は困窮した。税のうちには、皇帝に払う特別な税金があり、そのためには専用の銀貨が用いられた。ファリサイ派の人々が言ったのはその税金のことで、それを彼らは特に嫌っていた。その税金のせいで、紀元6年にはサマリヤやユダヤで暴動が起きていた。
  今日の箇所は教会の歴史の中で、宗教と政治、教会と国家の関係にかかわる箇所として読まれてきた。それは確かに大切な問題だが、現代の聖書学者によると、今日の箇所にはもう一つの大切なポイントがある。「律法に適っているでしょうか」とあるように、ファリサイ派がイエスに突き付けたのは宗教的な問題だった。律法に適っていないと答えれば、ローマ帝国に反逆しているとヘロデ派に訴えられ(実際にルカ23・2によると、イエスは裁判でその点を訴えられた)、律法に適っていると答えれば、ヘロデ派に妥協して律法の「真実」から離れ神を冒涜することになる。その結果、イエスは立ち往生し、群衆の評判が落ちるだろうとファリサイ派の人々は考えたのだ。
 イエスは、彼らが罠にかけようとしていることをすぐに見抜いて言う、「偽善者」と。宗教的な関心をよそおっているが、実は悪魔(サタン)のように罠にかけようとしていると。
 デナリオン銀貨は、表にはアウグストゥスの子ティベリウスの像があり、AUGUSTUS CAESER DEVS(神である皇帝アウグストゥス)と書かれていた(当時すでに、皇帝は神であると信じられていた)。銀貨の裏には、オリーブの枝をもつ平和の女神(アウグストゥスの3番目の妻リビアとも言われている)の像があり、PONTIFEX MAXIMUS(最大の祭司)と書かれていた。そもそもユダヤ教では神の像を(人の像も)作ることは許されなかった。この銀貨の形状はユダヤ人たちの信仰に反したため、この銀貨は汚れたものとされて神殿に持ち込むことが禁じられ、両替する必要があった。
  イエス自身はその時その銀貨をもっていなかった。しかし、ファリサイ派の人々はそれをもっていてイエスの目の前に出した。つまり、彼らは熱心な宗教家をよそおっていたけれども、実際には宗教を出しにしていたにすぎず、自分たちの利益のために銀貨を使っていたのだ。そこで、彼らの神が本当はどういうものだったかがはっきりする。それはマンモンであり、お金、利益、もうけだ。彼らがイエスを殺そうとしていたのは、宗教的な理由によってではなく、イエスが彼らにとって邪魔だったからにすぎない。

 銀貨を出したファリサイ派の人々にイエスは聞く、「誰の肖像と銘か」と。彼らは「皇帝」と答える。すると、イエスは言う、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。これは、2000年に及ぶ教会の歴史の中でさまざまな形で論じられてきた有名な言葉だ。この言葉を手がかりとして、世界や政治や権力と教会との関係について考察されてきた。キリスト者の教会も孤立した団体ではなく、現実には世界の中に生きているから、世俗権力に対する義務もあるというふうに。
 しかし、この短い一文でイエスがそういった問題に直接に触れているわけではない。イエスが使った言葉に注意すべきだ。イエスが使った言葉は「払うdidomi」という言葉ではなく、「返すapodidomi」という言葉。この銀貨が皇帝のものなら、皇帝に返すべきだと言っているのだ。
  続いてイエスは「神のもの」について言う。それは神の像のことだ。ユダヤ人にとって、そしてキリスト教にとって神の像は物質ではない。それは人間だ。想像されたあらゆるもののうち、人間だけが神の像に似せて造られた。人間という神の像を神に返しなさいとイエスは言うのだ。ファリサイ派の人々はいわば、神の像を自分のものにして、自分の利益のために利用している。それを神に返すようにイエスは言うのだーすべてのものに対して権力をもつ王である神に。イエス自身が来たのは、ファリサイ派が損ない覆ってしまったその像を修復し、顕にするためだ。罪によって、利益によって、人間の考え方によって奪われた神の像を神に返すべきだとイエスは言う。そして、福音書記者マタイにとって、そして私たちにとって神の完全な像はイエス自身だ。イエスの顔の上に神の本当の光が輝く。
  今日朗読された箇所には、この箇所の最後の文が抜けている。「彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」。立ち去るという言葉はちょうど、荒れ野での誘惑の箇所の最後(マタイ4・8−11)に出てくる。マタイ福音書の最初と最後で、イエスは誘惑を受けていることになる。今日の箇所でもイエスは悪魔に勝つ。ファリサイ派の人々は自分たちが神に近いと思っていたが、却って彼らは悪魔の家来になっていたのだ。
 教会の社会教説(詳しくはこちら)はとても大切だ。教会は世界から孤立し隔絶した団体ではない。宗教と政治の関係についてどう考えるべきかは大切な問題だ。
一方で宗教は個人的な事柄だから宗教は政治に関与すべきでないという見解があり、他方でイスラム教のように宗教が政治が密接に関わる宗教もある。しかし、今日の箇所は直接に宗教と政治の関係を論じているわけではない。イエスがこの箇所で私たちに言うのは、そのような議論の土台となるような、もっと深い事柄だ。それは、私たち人間が神のものであること。ちょうどデナリオン銀貨に皇帝の肖像と銘が刻まれていたように、どんな人ー男も女もーの心にも神の「肖像と銘」が刻まれている。世の権力に対してイエスが言うのは、人間を自分の持ち物にしてはいけない、束縛してはいけない、いじめてはいけないということ。どの人も神の作品であり、その中に神の息と血が流れている。