年間第30主日(A)

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22・37ー39)

永井隆博士が戦後住んだ如己堂。「己の如く人を愛せよ」という言葉から名付けられた。
永井隆博士が戦後住んだ如己堂。「己の如く人を愛せよ」という言葉から名付けられた。

 先日、おもしろいニュースがあった。1921年にノーベル賞を受賞したアインシュタインが翌年に来日し東京の帝国ホテルに泊まった際、配達人がメッセージをもってきたが、チップの持ち合わせがなかったので、ホテルの二枚の便箋にそれぞれ言葉を書いた。一つは「静かで節度のある生活は、絶え間ない不安に襲われながら成功を追い求めるよりも多くの喜びをもたらしてくれる」。もう一つは「意志あるところに道は開ける」。その二枚の便箋は、この水曜日に行なわれたエルサレムのオークションで2億円以上の金額で落札されたと言う。
 さて、今日私たちは教会から大切な言葉をいただく。それは二千年前のエルサレムでイエスが語った言葉だ。幸いにも教会はその言葉を大切に持ち続け、今日の典礼で私たちに手渡してくれる。アインシュタインの言葉はお金になったが、イエスのその言葉は二千年のあいだ、考えられないほど大きな聖性の力になった。その言葉によって生きることで多くの人たちが聖人になることができたのだ。私たちは今日、特別な心で、心を尽くしてその言葉を聞きたい。
 今日の箇所は短い。何週間も前にエルサレムに上ったイエスは、神殿で商売をしていた人たちを追い出し、祭司長やファリサイ派の人たちと議論になった。一般の人たちはイエスを尊敬していたが、彼らはイエスにきつくあたったのだ。そして不思議なことに、先週の福音書にあったように、ファリサイ派とヘロデ派は敵同士であったにもかかわらず、イエスを殺すために手を組んで弟子を送り、イエスを罠にかける質問をした。それに勝ったイエスに対し、今日は、律法の専門家が難しい質問をして、罠にかけようとする。
 「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。この質問は一見すると、子どもの公教要理のように単純な質問に見えるが、当時のユダヤ人、特に学者たちにとっては大問題だった。当時は、律法学者たちが宗教を口実としながら自分たちの利益のために掟をどんどん増やし、その結果613の掟があったらしい。それだけ掟があったら、網の中の魚のような気持ちになったことだろう。どの掟が重要かについてさまざまな意見があり、律法学者たちのあいだには対立もあった。しかし、一般には、ユダヤ人にとって最も重要な掟は安息日の掟と考えられていた。ユダヤ人の安息日は私たちキリスト者の土曜日にあたる。その日に仕事をせずに神とともに休む(創世記2・2参照)のが彼らにとって最も重要な掟であった。その掟を守ればすべての掟を守ることになり、その掟に反して安息日に仕事をすればすべての掟に反することになると律法学者たちは言っていた。彼らは、イエスが安息日に病人を癒したり、彼の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたのを批判したから、イエスはその問題を意識していた。
 イエスはどう答えたか。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」。イエスは不思議なことに十戒の最初の三つの掟を無視する。613の掟のうちには大きなものも小さなものもあったが、イエスは神についての掟も神殿についての掟もまったく使っていないのだ。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」。十戒には「殺してはならない」「盗んではならない」のように隣人に対する掟があるが、イエスはそのような掟を使わない。そのような掟は実は人間の常識に過ぎない。
 イエスの返答は旧約聖書の最も古い二つの書物からとられている。第一は申命記から。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、そして力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」。「聞け、イスラエルよ」の原語、シェマー・イスラエルはよく知られている。この言葉はイスラエル人にとって大切な言葉で、彼らはこの言葉を毎日祈りとして使い、しばしば特別な箱の中にその言葉を入れて扉にかけたりした。つまり、イエスは、彼を試そうとした質問に対して、毎日祈りで使っていた言葉で答えたのだ。しかも、申命記の「力を尽くして」に変えて「思いを尽くして」と言われている。申命記の「力」は財産を意味するが、イエスにとって神は財産を求めないから。

 私たちにとって大切なことだが、イエスにとって掟は祈りの体験から生まれるのだ。イエスは祈りの人だった。イエスの祈りについては福音書のあちこちに書かれている。父なる神に向かう親しく愛情深い祈り。一人になった時、成功に感謝する時などさまざまな機会に合わせた祈り。イエスにとって宗教とは、人を圧迫するための道徳的義務ではなく、祈りの体験から生まれる心の要求だ。

 イエスが私たちに教えて下さった主の祈り、私たちが毎日唱えるべき主の祈りがそうだ。主の祈りを祈ることでまずわかるのは、父なる神の子であること、愛されていること。その体験から、掟、つまり正しい態度や正しい生き方がわかる。愛されている自覚から、神を愛すること、人を愛すること、人を赦し人から赦されることを覚えるのだ。これはとても大切なことだ。別の言葉で言うと、掟は愛の体験から生まれるのだ。神から愛されている自覚がなければ、掟を理解することも行うこともできず、キリスト教的に生きることができない。キリスト者のあらゆる行動はその根本的な体験にかかっている。私たちは神の愛を知らなければ、人を愛することはできず、よい行いをすることができない。神の愛を知らないなら、よい行いをしようとしても必ず、祭司長たちやファリサイ派の人たち、最終的にイエスを殺した人たちのように、自分の利益のために掟を作って、その掟の網の中に人々を捕えることになる。これが今日の福音書で大切な点だ。
 第二に、「隣人を自分のように愛しなさい」は旧約聖書のレビ記の言葉だ。神を愛することと、隣人を愛することとは一つに結びついていて切り離すことができないとイエスは言うのだ。人を愛さず神を愛するのも、神を愛さず人を愛するのも本当ではない。私たちは神を愛するから人を愛するのだ。神への愛と人への愛はいっしょに育たなければならない。

 人を愛することはとても難しい。全世界で何千年も前から、哲学者、文学者、詩人、法律を考える人たち、それぞれの国のために働いた人たちはみな、そのことを考えていた。どう生きるべきか、何がいいか、何が悪いか。現代の私たちもまだ、それがわからない。人間には人を愛することを妨げるものがある。罪と言っても、利己主義、エゴと言っても、仏教的に煩悩と言ってもいい。人間は掟を考える時は必ず人を束縛する。自分の利益をねらってすることは大きな危険がある。アインシュタインの言葉をメディアは幸福の秘密と言っているが、今日私たちが聞いた言葉は、イエスが語る幸福の秘密だ。その言葉を私たちは心の中に受けとめ、祈りによって芽生えさせ花咲かせるために努力すべきだ。その努力は意志ではなく愛になる。イエスは今日の言葉のために十字架につけられた。それは十字架につけられる前のイエスが私たちに遺した言葉なのだ。
 今日の言葉はユダヤ人との議論の中でイエスが言った言葉だが、それがすべてではない。マタイ福音書では、今日の箇所の後しばらくすると、イエスは十字架につけられる。その直前の最後の晩餐の時、イエスが弟子たちに言った言葉がある。それは私たちに残された言葉だ。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。相手を自分のように愛する、つまり自分が愛されたいように愛するというのは人間的な基準だが、私たちの師であり兄であるイエスが私たちに言われたのはその程度のことではないのだ。神の子であるキリストが私たちを愛したように愛するのだ。そのために私たちは父なる神に愛されている。
 感謝しながら今日の言葉を大切にしそれによって生きることができるように光と恵みを願いたい。