年間第31主日(A)

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」(マタイ23・11

ジェームズ・ティソ「ファリサイ派への呪い」、1886-94年、ブルックリン美術館所蔵
ジェームズ・ティソ「ファリサイ派への呪い」、1886-94年、ブルックリン美術館所蔵

 毎日曜日に読む箇所ごとに、イエスと当時の政治的宗教的権力者たちとの溝は深まっていく。祭司長や長老たち、ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派、律法学者などとの対立は、十字架を予感させるほどだ。ところが、マタイ福音書の23章を読むと、律法学者とファリサイ派についてのイエスの言葉の激しさに驚かされる。訴えられているイエスが逆に訴えているようだ。
 ファリサイ派など、イエスの時代に存在した多くの党派は後に消えてしまった。それなのに、教会から与えられて今日の箇所を読むのは何のためか。福音書の他の箇所からわかるように、ファリサイ派にもイエスの友だちがいて、彼を食事に招いたりしていたし、ファリサイ派からキリスト者になった人たちもたくさんいた。だから、この箇所を読む時、単純な読み方をしないように注意しなければならない。イエスは当時いろいろな迫害に直面していたが、今日の箇所ではファリサイ派に向かって話しているわけではない。イエスは律法学者とファリサイ派を例として挙げて、彼が観察した彼らのさまざまな態度について話すが、彼らに向かってではなく、「群衆と弟子たちにお話になった」のだ。この表現は、マタイ福音書では、山上の説教の最初の言葉と同じものだ。だから、イエスがユダヤ教の伝統的な宗教家たちについて見た問題について厳しく語っているのは、そういった問題が自分の弟子たちの共同体(「小さな者たち」)、自分の新しい教会にあってはいけないと言っているのだ。つまり、イエスは、私たちキリスト者に向かって話しているのだ。だから、今日の箇所は、特定の時代の特定の宗教にあてはまる問題や、他の宗教の問題について説明しているのではなく、その問題が私たちの共同体に起こらないように強く注意しているのだ。
 さらにマタイがどのような時代にその福音書を書いたかを確認すべきだ。当時、特にエルサレムでは、ユダヤ教からキリスト者になる人たちが増え、ユダヤ教との対立が大きくなっていた。神殿が破壊された紀元70年の後には、ユダヤ教は自分の伝統に閉じこもり、異質な要素を排除する傾向が強くなっていた。少し後になるが、90年頃にヤムニアという町で開かれたとかつて想定されたヤムニア会議の真偽はともかく、100年頃には、ユダヤ教の聖書の正典が定められるとともに、キリスト教徒の排除が決定されていた。だから、マタイの当時はキリスト者にとって非常に難しい時代だったにちがいない。そのために、マタイはイエスのさまざまな言葉を集め、23章の長い章にまとめた。私たちが今日読む箇所はそのうちの一部にすぎないが、イエスは私たちにファリサイ派的な態度をもたないように注意しているのだ。
 今日の箇所には、いくつかの注意すべき大きな問題や危険について書かれている。私たちは確かにイエスの道に入ったのだが、私たちの信仰の共同生活には、以前の態度に陥ってしまう危険がいつもある。それをイエスは豊富な具体例を挙げて指摘する。
 第1の危険は、「座」(「モーセの座」)。コラジンで発掘されたように、多くのシナゴーグの中央に大理石の座があった。それは神の言葉を説明し教える人が座る場所とされていた。その座は根本的にはヤーウェの神のための座だから、空席のままにされるときもあった。初代キリスト教美術にも、誰も座っていない座が描かれた作品がある。イエスが批判するのは、この座についた人たちがその権威を乱用しているということ。つまり、その人たちは神の言葉を宣言する役割を与えられ、預言者のように神の憐れみの心を伝えなければならないのに、外面的な規則中心主義によって貧しい人たちを圧迫していた。自分の利益やもうけのため、自分の名誉のために神の言葉を曲げていたのだ。この人たちがわからなかったのは、宗教は掟ではなく、愛にかかわるということ。それこそイエスが言ったことだ。
 「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」。この言葉はよく誤解される。この翻訳では、彼らの言葉は正しいということになるが、そうではない。イエスが言うのは、彼らの行いは彼らの教えが間違っていることを示しているということ。イエス自身は、罪人に対して、間違いをした人に対していつも憐れみ深いが、彼らの態度はそうではない。だから、彼らはその教えもイエスの教えとは根本的に違っており、神から離れていることがわかる。
 第2の危険は言行不一致。言うことと行うことが違う。こんにちで言えば、さまざまな宣言文やメッセージを出すが、コミットしないという危険だ。

 第3の危険。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せる」。規則中心主義によって彼らは、宗教を心ではなく外面的な規則にしてしまう。そして、外面的な規則を守ることで、人よりも優越感を抱き、そこから兄弟を差別したり排除したりする間違いをする。規則を破ったときには、その汚れを清める儀式を定め、その儀式を行うためにまた新しい規則を作ったりして、どんどんと規則を増やし、息苦しい宗教を人に課し、人を神から離れさせてしまうのだ。こういう宗教は、傷を癒やすよりも、罪悪感を植え付ける。このような宗教の犠牲者に出会う時、イエスはいつも言う、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)。パウロもそのような宗教から回心した後に言う、「人を愛する者は、律法を全うしている」(ローマ13・8)。宗教はただ愛なのだ。
 第4の危険は、虚栄や自己顕示(人に見せること)。彼らは神に帰依するのではなく、自分が目立ったり、褒められたり、尊敬されるために宗教を使う。こんにちで言えば、世間に褒められるために、世間の考え方に迎合すること(ポリティカル・コレクトネス)。「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」。福音書の他の箇所では、人の前で善行をするとか、施しをするときにラッパを吹くとか、大通りで祈りをするとか、断食の時に暗い顔をするといった例がある(マタイ6章)。「宴会では上座、会堂では上席」、これは名誉を求めるということ。今日読まれなかった23章の続きは有名な7つの呪い(「不幸だ」)の箇所であり、そこでイエスは彼らの名誉志向を厳しい言葉で批判している。
 それに対して、今日の8-12節では、イエスが求める新しい共同体の肯定的なイメージが出て来ている。それは、一般の社会とその中にある一般の宗教とは正反対だ。
 「地上の者を『父』と呼んではならない」。実は初代キリスト教では教会内で「父」という言葉を使うことは禁止されていた(たとえば聖ヒエロニムス)。
 「あなたがたの教師はキリスト一人だけである」。教会では一人ひとりにそれぞれの役割があるが、それは自分の考えを言うのではなく、イエスの教えを伝える役割だ。だから、大切なのは、イエスの教えに忠実であること、自分の人間的な考え方を混ぜないことだ。
 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」。これは有名な言葉だ。イエスが求める共同体には、上と下、先輩と後輩がいない。もちろん与えられた役割の違いはあるが、違った階級、違ったランクの人はおらず、みんな同じレベルなのだ。イエスの共同体では、一番高い人は奉仕をする人だ。自分の役割が終わった時に、続ける権利を求めず、特別な賞賛やお世辞など報いも求めず、静かに退く人だ。
 だから、この点で、今日のイエスの言葉には普遍的な意味がある。イエスにとって、宗教を口実として野心を抱くのは大きな罪だ。その間違った態度は、人と人、共同体のメンバーのあいだの関係をゆがめ、共同体の愛を邪魔する。嘘の関係をもたらし、(パパ様がよく言う)ゴシップや内輪もめの原因になる。宗教は何かについて話し合う時に、私たちはよく私たちの価値観とイエスの価値観のちがいに気づく。私たちがあまり大切にしないテーマこそ却ってイエスにとって根本的な意味があるのだ。
 このことについてはルカによる福音書にも書いてある。イエスは最後の時期に弟子たちへの話でこのようなテーマに触れて、「あなたがたはそれではいけない」と言う(ルカ22・24−26)。ファリサイ派的な態度は私たちの中でも息を吹き返すかもしれないからだ。
 今日の箇所のファリサイ派のネガティブなイメージは聞きづらいが、それに対してイエスがもちだすのはポジティブでとても美しいイメージだ。それは本物の人間、パウロの言う「自慢せず、高ぶらない」人間(1コリント13・4)のイメージだ。自分と違ったもの、自分以上のものに見せかけようとはしない、謙遜で純粋な人、与えられた任務を忠実に行う人のイメージだ。神が愛しているのは、私たちの妄想ではなく、私たちのありのままの姿なのだ。
 このことは、パパ様から一般の信徒に至るまで誰もにとって大切だ。