年間第32主日(A)

賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。(マタイ25・4)

スイスのバーゼル大聖堂ガルス門(Mueffi in der Wikipedia auf Deutsch、詳しくは画像をクリック)
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 秋が深まる11月。一年間の教会暦も終わりに近づき、教会がいつも大切に心に留める終末論の空気が感じられる。それは、喜びと心配といった、相反する気分が入り交じった空気だ。今年一年の教会暦はマタイによって導かれてきたが、マタイはモーセ五書(旧約聖書の最初の五つの書物)を真似て、イエスの五つの長い話をまとめた。今日のたとえ話は五番目の話に含まれる。

 若い女性がたくさん出てくる今日のたとえ話は華やかな雰囲気だ。だからか、4世紀頃からさまざまな形でキリスト者に親しまれてきた。特にアルプス以北のヨーロッパでは、ゴシック様式の教会の入り口の彫像などで表現された。音楽では、バッハの”Wachet auf, ruft uns die Stimme”(目覚めよと呼ぶ声あり、訳詞はこちら)が有名だ。ベネディクト16世のお気に入りのカンタータで、一般謁見演説でこの曲について話している。その歌詞は、福音書の文面通りではなく、雅歌のいくつかの言葉も挿入され、黙想のようだ。

 しかし、このたとえ話を読めば読むほど、問題や矛盾が出てくる。結末も厳しくドラマチックだ。だから、よく調べ深く読む要求が生まれ、神学者や聖書学者もいろいろな解釈をしている。マタイ福音書だけにあるから、イエスの言葉を集めながらマタイとその共同体が作ったたとえ話かもしれない。さまざまな矛盾があるのもそのせいかもしれない。そして、このたとえ話は一つの物語というより、イエスの教えのコンパクトなまとめになっている。ちょうど主の祈りが祈りとはいえ、そこに埋められているものを掘り出さなければならないのと似ている。

 「天の国は次のようにたとえられる」。注意すべきは、天の国と言っても死んでからのことだけではない。今の生活、現代の私たちの生活にも関係がある。

 「十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」。人間の救いの神秘を表現するために、小さな明かりを手に暗闇を抜けて婚宴の広間に入る若い女性のたとえを使うとはただの神学者にはできないことだ。神である大芸術家、イエスだけが使えるたとえ話だ。

 「花婿の来るのが遅れた」。遅れることは誰にでもある。しかし、結婚式の日に何時間も遅れるとは奇妙だ。しかし実は、マタイによる福音書には、同じように主人(花婿)が留守にするたとえ話がある。「忠実な僕と悪い僕」「タラントン」のたとえがそうだ。だから、このたとえ話も神学的なたとえ話なのだ。「皆眠気がさして眠り込んでしまった」。イエスはよく「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」と言う。ここで注意すべきは、5人の賢いおとめたちだけではなく、10人とも「眠気」がさしたということ。それは教会の私たちみなということだ。私たちは日常生活で眠気に襲われる。たとえば愛する人を看病していても寝てしまったりする。精神的な意味でも、疲れや失望によって、眠気に陥り気力を失う可能性がある。それは、信者になったのにリスクを避けるといった状態だ。その問題は福音書のあちこちに出てくる。花婿を迎える喜びの日に、期待に反して花婿が来ないなら、いい人も悪い人もみな疲れて眠ってしまう。だから、このたとえ話のポイントは眠気そのものではない。信仰に疑いや疲れがあったり、祈りがマンネリに陥ったりすることではない。神はそのことがわかっていて、問題にしない。イエスはただ、そういったことを意識するように私たちに言いたいだけだ。だから、おとめたちの問題は眠っていたことではない。疲れて眠ってしまうのはある意味当たり前のことだ。

 「真夜中に…叫ぶ声がした」。真夜中とは12時。それは人生でもっとも暗い時を意味する。聖書で神がイスラエルの民(人間)に近づくのは何よりも、私たちを驚かせる「叫ぶ声」としてだ。「叫ぶ声」と言うと、たとえば預言者たちや洗礼者ヨハネが思い出される。そして、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ人1・1、2)。キリストとは根本的に言葉だ。イエスは人間になった神の言葉で、真夜中に響き渡り私たちの耳に入る。キリスト者とは聞く者だとパウロは言う(ローマ10・17)。

 「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」。「油」とは何か。マタイは説明していないから、曖昧なところが残る。「ともし火」については福音書のあちこちに出てくる。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」(マタイ5・14、15)。つまり、ともし火をもったおとめたちとは、イエスの再臨を待つキリスト者の共同体、教会を意味する。油はともし火の燃料になるが、塗油を思い出させる。メシアとは油注がれた者であり、善いサマリア人は、追いはぎに殴られた人に油を注ぐ。油は、恵まれない人、災いにあった人の傷を癒やすものだ。愚かなおとめと賢いおとめとの違いは、疲れでも眠気でもなく、油を用意していたかどうかだ。マタイによると、イエスが言うには、油は信者が眠っている時ももたなければならないものだ。 

 雅歌にも次のような言葉がある。「眠っていても/わたしの心は目覚めていました」(5・2)。つまり、それは、疲れや居眠りや弱さがあったとしても、信者である限りどうしてもなければならない大切なことだ。キリスト者とは疲れない人、眠くならない人、罪を犯さない人ではない。イエスは私たちが罪人であることを知っている。しかし、どんな状態にあっても、弱さや苦しみや危機、さらには罪の状態にあっても、キリスト者はキリストの声を聞き分けて、目を覚まして、キリストの声に、彼の愛に答える態度をもたなければならない。

 愚かな5人はユダヤ人で、賢い5人はキリスト者のこと。マタイ7章の「岩の上に家を建てた賢い人」と「砂の上に家を建てた愚かな人」のたとえも思い出される。キリストの弟子は、どんなことがあっても、もう一度ゼロからやり直すことができる。それに対して、世間は、そんなことをしたなら、もう終わりだ、諦めるしかないと言う。それは、希望を奪い絶望に陥らせる悪魔の声だ。言い換えると、夜になっても花婿は来なかったから、もう絶対に来ないと悪魔は言うのだ。

 たとえ話の後半は、受け入れにくいことでよく知られている。

 「賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』」。夜中に油を買いに行けと言うのは不自然だ。彼女たちは他の5人を厳しく突き放しているように思える。しかし、この言葉は、教会によくいるファリサイ派的な人たち、他人の欠点を厳しく指摘して自分が正しいと思っている人たちのことを言っているのではない。また、油が途中で足りなくなるから彼女たちが分けなかったのも当然だと言う人もいるが、ここで言われているのはそのようなことでもない。

 「油」とは市場で買ったり、他人に分けたりできるものではない。ともし火の下にある油とは、何か深い意味で個人的なことだ。たとえば、私たちは他人の代わりに信じることができない。他人の代わりに愛することもできない。誰の人生にも、自分にしか答えられないことがある。それは各人が自分の良心の奥底でする根本的な選択だ。マタイによると、イエスが言いたいのは、その機会を逃してはいけないということ。たとえば、神の愛を受け入れる決心がそうだ。

 だから、愚かなおとめたちの問題は不完全な生活でも罪でもなく、イエスを知らないことだ。みんなと同じ服を着て、同じ格好をして、同じ行列に入って、同じコーラスで歌うつもりでいたが、花婿を知らなかったのだ。言い換えれば、聖書を最初から最後まで暗記していても十分ではない。悪魔も聖書を知っているのだ。教会に通うのは大切だが、それも十分ではない。広場の真ん中で祈りの人間と見せかけても、それでもない。「主よ、主よ」というのも十分ではない。婚宴の間は当時は誰もが入れるように戸が開けられていたが、ここではもう閉まっている。公共要理を学んだり、神学をすることも十分ではない。今日のたとえ話でイエスが言いたいと思われるのは、イエスの愛を知ることだ。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」。ただイエスを知りイエスに知られること、それだけだ。

 「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」。この言葉はたとえ話の内容と合わない。マタイはきっと、もともと別々のイエスの言葉を集めたのだろう。

 宗教的な儀式も、神のためにする慈善活動も十分ではない。パウロが愛の讃歌(1コリント13章)で言うとおりだ。英雄でなくてもいい、一晩中起きている行者でもなくていい。ただ、憎しみやニヒリズムに陥らず、神が語られることに耳を傾けること。