年間第33主日(A)

「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25・21)。

ユーゲン・ブルナンド「タラントン」(『さまざまなたとえ話』、1908年) 
ユーゲン・ブルナンド「タラントン」(『さまざまなたとえ話』、1908年) 

 神についての間違ったイメージは、信者の生活にダメージを与えることがありうる。今日のたとえ話でマタイは、イエスが伝えた本当の神がどういう方かを示そうとする。
  マタイ福音書25章のタラントンのたとえ話は、有名だ。日本語でも使われるタレントという言葉は今日のたとえ話から来ている。
  「ある人が旅行に出かけるとき」。「人」とは神である人、キリストのこと(ルカ福音書では「王」とある)。「旅行に出かけるとき」とは、教会がキリストの再臨を待つ期間のこと。「僕たちを呼んで、自分の財産を預けた」。「僕たち」と言っても下位の召使ではなく、上位の人たち。「一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン」。タラントンはもともと貨幣ではなく、重さの単位。時代によって違うが、26キロから36キロに相当する。一タラントンとはそれだけの重さの黄金のことであり、換算すると、労働者の20年間の賃金に当たる。だから、その財産を「預ける」とは、それを元手に商売をさせ利益を上げて返してもらうためではなく、僕たちとそれを共有するということ。このことはユダヤ人には、ヤーウェの神が天地を創造した時のことを思い出させる。創世記によると、神は万物を創造し、それを成長させ実らせるためにアダムに委ねた。ミサの第四奉献文にもこうある―「(あなたは)ご自分にかたどって人を造り、作り主であるあなたに仕え、造られたものをすべて支配するよう、全世界を人の手におゆだねになりました」。だから、主人(神)は僕(人間)たちをご自分の協力者として、その忠実さを見ようとしたのであり、彼らは主人の留守中、その財産を楽しむこともできたのだ。
 このたとえ話の中心は3番目の僕。その僕についてはいろいろな解釈がある。その僕は少ない財産しか預けられなかったのにひどい扱いをされたと外面的に読んで怒る人たちもいるが、しかしこの僕が預かったのも大金にはちがいない。また「それぞれの力に応じて」ともあるから、彼にできる限りでたくさんもらったという点では他の僕と変わりはない。だから、この僕の問題は、他の人より少ない財産を預かったことではない。
 「主人が帰って来て、彼らと精算を始めた」。精算と言っても、「不正な管理人」のたとえ話のように「会計の報告」を見て無駄遣いを探そうとしているのではない。父親が子どもの成長や成功を喜び誇らしく思うように、主人は彼らと共有した財産がどうなったかを見たいのだ。父親にとって子どもの幸せ以上に大きな喜びがないように、神の喜びは自分が造ったものの幸せなのだ。
 「忠実な良い僕だ」。「忠実」とは、財産が増えることを望んだ主人への忠実だ。「よくやった」。ちょうど神が世界を造った時に毎晩、良しとされたのと同じだ。「少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」。だから、神は預けたものの返却や利益を望んでいるのではない。神が「少しのもの」を預けたのは忠実さを試すということなのだ。
 ところが、3番目の僕は(なぜかは説明がないが)、主人(神)に対して自分がどのような立場にあるかを理解せず、自分がただの召使だと思っている。彼は主人に対して冒涜と言えるほどの言葉を使う。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だ」。彼は財産を預けられ、神の仲間とされたにもかかわらず、それを土に埋める。土に埋めたのは、当時のラビたちの法律によると、人から何かを預かった時に土に埋めれば、盗まれても責任がなく返す義務がないという決まりがあったから。つまり、彼は神に対して責任や義務に縛られる関係にあったのだ。そして、「恐ろしく」という言葉がある。彼は、神を厳しい神と考えて、恐れて閉じこもり、リスクを侵す勇気がなく、自分の安全だけを考えたのだ。

 それは、よく見ると、ファリサイ派のように、イエスが生涯争った人たちのこと。たとえば、放蕩息子のたとえ話の兄がそうだ。父の家にとどまっているが、跡継ぎ息子なのに父に対して奴隷のような態度をとって、楽しめず、恨みを抱く。あるいは、ぶどう園の労働者のたとえ話で文句を言う労働者もそうだ。つまり、それは、神に対して、子どもとして、あるいは友人としてではなく、ライバルとして関わり、神の前で自分を正当化する態度だ。そこから、他の人に対する間違った態度も生まれる。この3番目の僕は「あなたのお金」と言うが、放蕩息子の兄も「あなたの息子」と言う。
 彼に対して主人は言う、「怠け者の悪い僕だ」。悪いとは、心が病気で、神のみ旨を理解していないということ。つまり、神が宇宙の春であり、宇宙に花と実りをもたらすというみ旨のために人間を召し出したことを理解していないということ。要するに、忠実な良い僕と怠け者の悪い僕がいる。そのことは種撒く人やパン種などイエスのいろいろなたとえ話と共通している。
  今日のタラントンのたとえ話は、初代教会の事情を前にマタイがイエスの言葉をまとめて書き残したものだ。この中には、二つの層があるように思われる。一つの層は、イエスが活動した当時の事情とそれを踏まえた人間についてのイエスの教えだ。もう一つの層は、マタイの関心。マタイは、モーセの契約、つまり神とその僕としてのユダヤ人との契約であった第一の契約に対して、イエスの契約、神との新しい関係を意味する第二の契約を示したいのだ。
 「財産」とは具体的に何を意味するか。タレントとは英語では、それぞれの人がもっている音楽などの才能を意味する(日本語ではそこから芸能人を意味する)が、僕たちが預かった財産をそのように理解するなら狭い理解だ。彼らが預かった財産とは、その人自身の幸せのために生まれつき授かった個人的な特徴ではない。それは第一に宇宙の中の人間の立場を意味する。そして、キリストによって父なる神との関係は新しい関係になったから、財産とは第二にキリストそのものを意味する。つまり、キリスト信者にとって、キリストの秘跡、キリストの体、キリストの言葉を意味する。だから、このたとえ話は信者に向かって、あなたたちはこのような宝物を他人と分かち合いなさいと言いたいのだ―神への恐れを捨てて。「愛には恐れがない」(第一ヨハネ4・18)。恐れから解放されて、キリストを伝えなさいと言いたいのだ。言い換えれば、宣教ということ。教会の時代にあってキリスト者はキリストを他人に伝えるために呼ばれたのだ。第一朗読として、「有能な妻」について語られる箴言の箇所が選ばれているのも、世話をし育てるという役割について書かれているからだ。教会にはキリストを受け入れ育てるという女性的な使命がある。それを象徴するのがマリアだ。教会はまもなく、マリアの季節である待降節に入る。