待降節第1主日(B)

それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。(マルコ13・34−35)

ピエロ・デッラ・フランチェスカ「出産の聖母」、1467年、マドンナ・デル・パルト美術館
ピエロ・デッラ・フランチェスカ「出産の聖母」、1467年、マドンナ・デル・パルト美術館

待降節に入って

 1ヶ月ほどだが、一年間の典礼の中でも魅力的な待降節。この季節を送るためにキリスト者は長い歴史の中でさまざまな音楽や美術を生み出した。私たちはこれから少しずつクリスマスに近づいていくが、町ではもうクリスマスの飾り付けがされ、クリスマス・ソングが流れているから、微妙な気持ちになる。けれども、それもまた、待降節を思い出すためのよいきっかけになる。

 

 今日のミサの集会祈願には「(待降節の)歩み」という言葉がある。それは少しずつ近づくことだ。クリスマスはその時だけお祭りをするのではなく、少しずつ近づいていくもの。キリストに近づく旅の季節が待降節だ。

待降節の2つのテーマ

  簡単に言うと、待降節には、2つの大きなテーマがある。第一は、終末論。このテーマは前年A年の最後の方にもあったテーマだ。第二は、降誕祭を祝う準備だ。

 

 第一主日は終末論がテーマ、第二主日以降は、降誕を理解するために重要な人物が出てくる。それは、イザヤ、洗礼者ヨハネ、マリアの三人だ。今日も第一朗読でイザヤ書の素晴らしいページが読まれた。そして待降節でキリストの次に大切なのはマリアだ。待降節はマリアと深い関係がある。第二バチカン公会議において、司教たちはマリアを理解するために5月など他の季節より待降節を示唆した。待降節、マリアはお腹に赤ちゃんがいる。教会も同じだ。教会も妊娠している。私たちもそうだ。私たちのうちでキリストが生まれようとしている。私たちはこれから世界にキリストをもたらすのだ。

今年はマルコ福音書

  今年一年、私たちはキリストを知るためにマルコによる福音書によって導かれる。マルコ福音書は最初に書かれたと考えられている福音書で、一番短く、ユダヤ人でない人には一番わかりやすい。マルコは若い頃イエスの受難を目撃し、ペトロについてローマに行き、福音書を書いたと考えられる。

「目を覚ましていなさい」

  今日の箇所でイエスは「目を覚ましていなさい」と何度も繰り返していて、大げさなほどだ。私たちは徹夜で仕事をしなければならない時とか赤ちゃんが夜泣きをする時とか病気で寝られない時とかに一晩中「目を覚まして」いて寝られない。それは苦しみの状態だ。寝ないで仕事をすると、過労死の危険もある。他方、「目を覚まして」いることはよいこととも結びつく。マルコ福音書ではなくルカ福音書だが、二人の待つ人物が出てくる。シメオンとアンナだ。二人とも年をとっている。アンナは若い時夫をなくしてからずっと神殿の近くで暮らし、メシアが来るのを待っていた。ルカ福音書には、シメオンが歌った祈りが出てくる。その祈りを司祭や修道者は毎晩寝る前に唱える。

「神よ、いまこそ あなたは おことばのとおり、しもべを安らかに行かせてくださる。わたしは この目で あなたの救いを見た。あなたが万民の前に備えられた救い、諸国の民を照らす光、あなたの民イスラエルの光栄」。

 だから、待つということには二つの面がある。一方では、苦しく重い気持ち、他方では、雅歌にもあるように、恋人を待つ気持ち。待降節は、この二つの気持ちが混ざっている。この箇所には、「気をつけて(いなさい)」という言葉もあるが、世の終わりが来るから、あるいは死の危険があるから事故などにあわないように注意しなさいという意味ではない。終末論と言っても、終末は悲しいことではなく、神が私たちを訪れるということだから。

物語の一つ一つに注目すべき

  イエスは30ぐらいのたとえ話を使っている。たとえ話は物語全体に意味がある。それに対して、今日の箇所はたとえ話というよりもアレゴリーだと聖書学者は言う。アレゴリーは、物語の一つ一つの部分に意味があるから、その一つ一つに注目する必要がある。

「家を後に旅に出る人」

  タラントンのたとえ話もそうだった。主人は、旅に出ると見えなくなる。それは私たちの状態だ。万物の持ち主である神は私たちに見えない。イエスが十字架上で死んで復活し天に戻った後、弟子たちに見えなくなった。それはまさに私たちが生きている状態だ。

「僕たちに仕事を割り当てて」

  日本語の訳は「仕事を割り当てて」となっているが、不十分だ。もとのギリシア語によると、僕たちに自分の財産をすべて、自分の権力をすべて渡したということ。つまり、神が私たちに渡したのはただのチップではないのだ。イエスが見えなくなっているあいだに、私たちに与えられたのは小さな役割ではない。私たちは神の持ち物をすべていただいたのだ。タラントンのたとえ話を思い出すと、1タラントンとは膨大な額だった。つまり、イエスが天に戻った時に、私たち教会に与えられたのは神の財産のすべてだ。私たちは下位の僕、ただの召使ではなく、神から大きな仕事を与えられたのだ。

 教会の時と呼ばれるこの期間は神にとって大切だ。だから、何よりもまずしなければならないのは、私たちに与えられた財産を調べて知ること。たとえるなら、医者にとって一番大切なのは患者の価値であり、教師にとって一番大切なのは生徒の価値だ。患者の価値を知らない医者はやぶ医者であり、教え子の価値を知らない教師はただの雇い人だ。

 この待降節の季節にまず第一にすべきなのは、職業という神から与えられた大きな宝物を理解すること。待降節の季節はそのような大きな黙想のための時期だ。

「責任をもたせ」

 私たちに与えられた責任は一人ひとり違う。その人がその人に与えられた責任を果たさないと、代わりにその責任を果たせる人はいない。目覚めているとは、その責任の重大さを意識することなのだ。

「門番には目を覚ましているように」

目を覚ますとあるが、ギリシア語の原語を見れば、軍隊の言葉だ。私たちには想像できないが、夜中に敵がやってくるなら、門で見分けなければならない。

「あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない」

 居眠りしてはいけない。なぜなら、居眠りしているあいだに、いろんな危険が入ってくるかもしれない。危険とは何か。私たちは洗礼を受けてキリスト者となり教会に通っているのに、生活の中でテレビを見たり人の話を聞いたりして、気づかないうちに、私たちの価値観がだめになる危険がある。この危険から私たちを救うためのイエスの言葉が「気をつけて(いなさい)」。神から離れた価値観が入らないように。

「いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か」

 ユダヤ人は夜を3つに分けたが、ローマ人は4つに分けた。マルコはローマ人の分け方に従っている。そして、聖書では有名な夜がいくつかある。天地創造の夜、アブラムが出発した夜、イスラエルの民がエジプトから脱出した夜、そしてキリストが復活した夜がそうだ。夜は、前後左右を見分けるのが難しい。私たちは薄暗い世界に生きている。しかし、いつか私たちは知らないが、大きな光が来る。主人が戻る。私たちに会いに、私たちを迎えに来るのだ。5人の賢いおとめたちのように、用意していたい。 

待降節に心がけること

 待降節が始まった今日、そのような心で待降節を生きたい。具体的に何をしたらいいか。いくつかのアドヴァイスをしたい。

1.神の言葉

  第一に大切なのは神の言葉。待降節のために神の言葉が特別に選ばれている。「聖書と典礼」のパンフレットの最後のページに1週間の朗読箇所が書かれているから、自分の聖書を開いて、毎日読む。ミサは大切だから、日曜日には、いつもより早めに来て、ミサが始まる前に数分静かに祈り、神の言葉を聞くために心を整えるのが待降節にふさわしい。先日、パパ様がミサの前の沈黙について話したことが全世界のカトリックメディアに報道されている。だから、ミサの前に聖堂でも玄関でも世間話をしないようにする。ミサの前の時間は、神の言葉を聞くため心を整える時間だ。

2.告解

  第二は告解。待降節は告解をする時期だ。告解する内容は、つまらない外面的な事柄ではなく、自分にとって大切な深い事柄について話すこと。所属教会でも他の教会でもいい。どの司祭でも頼まれたら受ける。

3.和解

 第三は和解。いっしょに生活すると、問題が起きることがある。言葉のすれ違いとかで、関係がこじれることがある。待降節は和解する時だ。勇気を出して、自分から切り出すこと。たとえば誰かと関係が切れていたら、それを直すべきだ。待降節は、そのために神が私たちに恵みを与えてくださる時期だ。

 

4.祈り

 第四に祈り。できれば毎日家で10分間静かに座り祈る。そうすれば私たちの生活がずいぶん変わる。子どもたちにも祈りを教える。たとえば寝る前に静かにして神様に祈ることを。外面的なことも役に立つ。たとえば馬小屋を家に置く。部屋の片隅に飾って、その馬小屋の前で、毎日少し祈ったり。

5.宣教

 最後に宣教。待降節降誕節は代表的に宣教の時期だ。マリアはイエスを産んで私たちに手渡す。教会もマリアのようにこの世界にキリストを産もうとしている。私たちもそれぞれそのチャンスを探したい。友だちとイエスについて話をしたり、または友だちをクリスマスに教会に誘ったり。近所でも何かできないか。いつもと違ったこと、形あることをするのが大切だ。

自分の足りなさに気づくこと

 待降節は簡単ではない。待降節を生きると気づくのは自分の足りなさだ。いくら神のために考えても、一生懸命やっても、足りないところが出てくる。それに気づくことが大切だ。

 私たちは完全な人間だから、神を探し求めるのではない。素晴らしい人間だから、神について人々に話すのではない。不完全な人間としてキリストについて語るのだ。

 教皇フランシスコは、あなたは誰かと質問されるなら、私は赦された罪人と答えると言う。私たちもみな罪人で、足りないところがある。足りないからこそ、私たちは神を求める。そして、神を求める心を人と分かち合うことも出てくる。よい季節を生きるように、お互いに力を出し合いたい。