待降節第4主日(B)

マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1・38)

フラ・アンジェリコ「受胎告知」、1430~1432年、プラド美術館所蔵
フラ・アンジェリコ「受胎告知」、1430~1432年、プラド美術館所蔵

マリアに捧げられた主日

  待降節は神の言葉が豊かに与えられる季節。この季節に教会は、三人の人物―イザヤ、洗礼者ヨハネ、マリア―を中心にして生きるように私たちに勧める。洗礼者ヨハネとマリアは美術でもよくいっしょに描かれる。

 待降節第4主日である今日はマリアに捧げられた主日だ。今日は待降節最後の主日とはいえ、今年は暦の関係上、イエスの降誕を準備するのもあと数時間を残すのみだが、今日のルカ福音書の箇所が私たちに伝える大切なことに耳を傾けたい。

教会の母マリア

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 なぜ私たちカトリック信者はマリアをこんなに大切にするのか? 

 

 答えは簡単。私たちがキリストに対してもつ心の態度はすべてマリアにあると教会は見るから。第二バチカン公会議は「教会の母」という言葉を使った。マリアは教会の鑑なのだ。マリアについて記した『教会憲章』第8章は神学と美学に溢れており、時に触れて読み返すことが勧められる。有名な神学者H・U・フォン・バルタザールは「教会はマリア的原理によって生きている」と言った。少し難しい表現だが、どういうことか。教会は一般の人が外側から見ると、権威と権力をもった大きな組織に見えるが、バルタザールによれば、それは外面的な覆いにすぎない。教会のエッセンスはそれではない。教会の大切な中身は、キリストに対する驚きや観想、信頼、愛、喜びなのだ。それが教会のすべてだ。だから、教会は善意の活動を一生懸命する人たちのクラブにすぎないのでなく、神に触れられて心から神を愛する人たちの家族なのだ。マリアがそのことを示している。何よりも、マリアはキリスト者の中で一番神を愛する方、一番神のそばにいる方、一番みことばを聞いた方、一番信じた方、一番神に「はい」と答えた方、完全に聞く方なのだから。

今日の福音朗読箇所

  教会がそのことを知ったのは、今日の福音書のページ――美しく、繊細で、神学に溢れるページから。この受胎告知のページこそ、キリスト教の中心であり、私たちが信じていることがすべてそこに含まれている。ルカがこのページを記したのは、イエスが主であることを私たちに伝えるため。ルカはこの短いページに、復活について使う言葉をすべて使った。 

  今日の箇所をルカは、旧約聖書の中で神が現れる時の荘厳な言葉遣いで記す。

「天使ガブリエルは…おとめのところに遣わされた」

  天使は神の使い。おとめであるとは、彼女に起こることがすべて神の働きであるという意味。つまり、イエスは私たちの祈りの結果ではないのだ。前の時代の人たちが祈ったから、メシアが来たということではない。イエスの到来は、私たちの期待があったとしても、完全な賜物なのだ。別の言葉で言えば、私たちが神を知る前から神は私たちを知っていた、私たちが生まれる前から、私たちが母親の胎内にいる時から、そして永遠から、私たちは神から愛されていた。そのことを、マリアが身ごもったイエスが私たちに示しに来るのだ。

「おめでとう、恵まれた方」

受胎告知教会
受胎告知教会

  1965年、マリアの家であったと考えられている岩窟(その地上にはナザレ受胎告知教会が建てられている)の柱の土台の石に、2、3世紀に遡る古い落書きが発見された。そこにはギリシア語でXE MAPIA(カイレ・マリア)と刻まれている。カイレ・マリアはラテン語のアヴェ・マリアに当たる(カイレは「よろこびなさい」という意味)。古代の信者たちはマリアに向かって最初からこの言葉を使っていたのだ(画像はこちらのサイトを参照)。

「恐れることはない」

  恐れは恐がることではない。神聖なものに対して敬う気持ちだ。

「あなたは神から恵みをいただいた」

 

 恵みとは神の命のこと。神の命、神の息があなたの中にすでにある。

「あなたは身ごもって」

「契約の箱、神殿に運ばれる」『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』、15世紀初期
「契約の箱、神殿に運ばれる」『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』、15世紀初期

 旧約時代、十戒を刻んだ二枚の石板が入った箱は「契約の箱」と呼ばれたが、マリアは本当の契約の箱だ。契約の箱が3ヶ月エドムの家に留まった(サムエル記下6・17)ように、マリアはエリザベトの家に3ヶ月泊まった。あるいは、神殿と言える。マリアはお香の煙が立ち昇る神の神殿だ。あるいは、日本の神輿、京都の祇園祭の山鉾を思い浮かべてもいい。喜びいさんでそれをかつぐと、世の中に神が現存する。私たちもマリアと同じだ。教会は、合理的なことではなく、神を、イエスを運ぶこと。私たちも、ミサに来て、神の言葉を聞いて、聖体拝領して、神にあふれて教会を出て、この世に神を運ぶ。 

「男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」

  ここではじめてイエスの名前が出て来る。そして、イエスの使命も教えられる。ルカが言うのは、イエスの誕生がすべての歴史の中心であるということ。 

「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。…聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」

 この箇所には初代キリスト教の信仰のエッセンスが含まれている。イエスが「人」であること、「偉大」であること、永遠の王であること、ダビデの後継者であること、天の「いと高き方」の子であること、「聖なる者」であること。そして、「聖霊」という言葉も出て来る。だから、私たちの信仰がすべてこの箇所に出ているのだ。 

マリアの返答

クレルヴォーの聖ベルナルド修道院長、『黄金物語』13世紀の装飾写本
クレルヴォーの聖ベルナルド修道院長、『黄金物語』13世紀の装飾写本

 さて、天使から知らせを聞いたマリアはどうするか、何と答えるか。クレルヴォーの聖ベルナルドが言うのは、その時、宇宙に大きな沈黙があった(知恵の書18・14参照)。宇宙全体が息を止めて、マリアの返事を待っていた。すると、マリアは「はい」と答えたのだ。 

「わたしは主のはしためです」

 「わたしは主のはしためです」と日本語に訳されているが、ギリシア原文では二つの重要な言葉が使われている。

 一つはイドゥで、「ここにいる」という意味。イドゥの反対語は日本語でも使われているアリバイで、アリバイは「他のところにいる」という意味だが、イドゥとは「ここにいる」という意味なのだ。ヘブライ語のヒンネーニに当たる言葉で、相手を安心させるニュアンスがある。つまり、マリアは、自分の祈りの力で神の母になったのではなく、神が呼んだときにそこにいて神に返事したから、神に心をゆだねたから、神の母になったのだ。

 

 もう一つの言葉は、ドゥロスで、はしためを意味する。ただし、はしためと言っても、ただのお手伝いさんではなく、神からミッションをもらった人のこと。つまり、マリアはこの返事で、キリストを伝えるキリストの母であることを承諾して、「はい」と言って、それからずっと私たちにイエスを示す役割を受けたのだ。そして、マリアに続いて、マリアと同じように、マリアから力を得て、何億もの人たちが「はい」と答えた。私たちも洗礼の時に同じようにイエスに「はい」と答えたのだ。

道を示すマリア

ボナヴェントゥーラ・ベルリンギエーリ「ホデゲトリア(聖母子)」、メトロポリタン美術館所蔵
ボナヴェントゥーラ・ベルリンギエーリ「ホデゲトリア(聖母子)」、メトロポリタン美術館所蔵

 正教会にはたいへん美しい言葉がある。ギリシア語でHodegetriaという言葉で、道を示す者という意味。それは、マリアがイエスを抱きイエスを示すイコンのこと。なぜか。イエスは道だから。待降節のマリアはイエスを示す。この人を見なさい、と。教会もマリアを見て、宣教師のミッションを受ける。だから、私たちカトリック信者はマリアを大切にするのだ。