四旬節第2主日(B)

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。(マルコ9・2―3)

ピエトロ・ペルジーノ「変容」、1496―1500年、コッレージョ・デル・カンビオ
ピエトロ・ペルジーノ「変容」、1496―1500年、コッレージョ・デル・カンビオ

サタンとの闘い

 先週(四旬節第一主日)の福音朗読は、イエスが荒れ野でサタンから誘惑を受ける箇所だった。この箇所によって教会は洗礼志願者に、イエスによる救いを示すとともに、イエスに倣うように勧めるということだった。

 

 もっとも、イエスのサタンとの闘いは40日間だけではなかった。イエスは私たちの救いのために全生涯を通して悪と闘ったのだ。サタン、悪魔と言っても、超自然的な存在というだけではなく、世の中に存在する悪の力のこと。サタンは、イエスの弟子たちの中にさえ働いて、道から外れるように全力を振るう。

変容

  四旬節第2主日に読まれるのは変容の箇所。イエスの変容は神の啓示だ。イエスがどういう方で、私たちとどういう関係にあるか――その真実にもう一歩近づくことができるように教会はこの箇所を選んでいる。変容について3人の福音書記者(マタイ、マルコ、ルカ)はそれぞれの仕方で物語っている(マタイの箇所についてはこちら、主の変容の祝日についてはこちらを参照)。教会にとって黙想のために重要なテーマだ。

受難の予告

  今日の箇所はマルコ第9章から。先の第8章でマルコはすでに、受難の予告について語っている。イエスは、彼の道が力をもって敵を退ける勝利者の道ではないことを弟子たちにはじめて告げる。イエスの後をついて来たとはいえ、彼の本質を理解しないままだった弟子たち。イエスが「岩」(頑固者、石頭)というあだ名で呼ぶペトロは、イエスをいさめようとさえした(「そんなことがあってはなりません」マタイ16・22)。その時、イエスはサタンという言葉を使って、ペトロを厳しく叱る。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。イエスは、力をもって罪人を無理矢理に連れ戻すためではなく、愛をもって自分を捧げるために来たメシアだ。そのために、権力者や宗教の代表者から迫害され、十字架につけられて殺される。第8章のこのエピソードは、今日の箇所を理解するためにぜひ思い出しておく必要がある。

今日の箇所

「[そのとき]」

 今日の朗読では省かれているが、聖書原文では「6日の後」。つまり、第8章の受難の予告から6日後ということ。「6日」とは天地創造の6日間を連想させる。

「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて」

 ここでマルコは意図的にシモンではなく、ペトロという呼び名を使っている。ペトロとは「岩」という意味で、イエスがつけた呼び名だ。頭が固い人、理解が遅い人という意味。イエスは偉大な教育者だ。ペトロを愛するが、褒め言葉で引き寄せようとはせず、ペトロの弱さを表現するあだ名をつけるのだ。マルコはこの箇所では、イエスを理解できないペトロの弱さについてそのまま語っている。それは弟子であるマルコにペトロが話したことだろう。自分の弱さを隠さないのはペトロの偉大さだ。それは私たちにとって大切なことだ。ペトロは罪のない清らかな人ではない。ペトロはその弱さから回心した人だ。だから、マルコに話す時に、自分の弱さを隠さない。

 ヤコブとヨハネも、問題のある弟子だった。そのことをよく理解すべきだ。二人は、イエスからギリシア語でボアネルゲスというあだ名をつけられていた。雷の子という意味だ。つまり、二人は、怒りやすく、暴力的だった。彼らはイエスのように人の弱さに憐れみを抱くことをせず、神の罰を願うからだ。つまり、回心する前の二人は、ファリサイ派や律法学者に典型的に見られる態度を示していたのだ。この二人はイエスの後をついてきたが、イエスがどういう方かがまだわかっていない。イエスがこの三人を高い山に誘ったのは、遠足のためではなく、自分と彼らの召し出しのエッセンス、つまり十字架の道を彼らに教えるためだったのだ。

「高い山に登られた」

 聖書では、山はいつも神が住む場所だ。聖書には、いくつかの重要な山があるが、ここはシナイ山を連想させる。詩編に書いてあることだが、神はこの世に入る時、山を踏み台として使う。

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」

 変容は、イエスのうちに隠されているものがあらわになることで、神だけがその真実を表現することができる。

「この世のどんなさらし職人の腕も及ぼぬほど」。

 これはマルコの特徴的な表現で、とてもおもしろい。つまり、この出来事は人間の知恵や悟りや努力ではなく、神の啓示、神の働きなのだ。

「服は真っ白に輝き、白くなった」

 白さは神の色だ。ダニエル7・9、「その衣は雪のように白く、その白髪は清らかな羊の毛のようであった」。それは神のことだ。ただし、ここで神はご自身を啓示するのではなく、我が子を啓示する。神聖な光を発した服はイエスが神であることを示している。イエスに従う人にとって、それは、イエスを知るための大きな出来事だ。(それは、ルカ福音書では、イエスが祈りのあいだに体験したこととして、イエスの内面を中心にして語られる)。

「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」

 

 

  モーセは律法の土台だ。彼を通してイスラエルは神から掟を受け、神と契約を結んで、神の民になった。だから、モーセはユダヤ人にとって根本的な人物だ。他方、エリヤはメシアの前に来ると言われていた預言者だ。エリヤは暴力的な預言者で、神の掟を異邦人に課そうと暴力を奮った(列上18・40参照)。だから、モーセとエリヤの二人はユダヤ人にとって重要な人物だ。

 マルコの記述について注意すべきなのは、この二人が三人の弟子たちとではなく、イエスと語り合っていたこと。何を話していたかをマルコは書いていない(ルカは十字架についてと書いている)。ここで示唆されているのは、イエスが中心であること。モーセとエリヤはメシアではなく、最後の預言者だった洗礼者ヨハネのようにただの預言者で、前もって語った者にすぎない。だから、旧約聖書全体はイエスによってのみ理解すべきだ。ヘブライ人への手紙では「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(1・1−2)。つまり、いろいろな預言者がいたけれども、イエスは預言者とは違うのだ。エリヤとモーセは今後言うことは何もない。

  それは私たちも同じことだ。洗礼志願者に向かっても、神はいろいろな方法であなたたちに近づいたが、最後にキリストによってそばに来たと言うことができる。

「ペトロは、どう言えばいいのか、分からなかった。弟子たちは非常に怖れていたのである」

 ペトロはイエスをまだ理解できず、混乱している。ペトロは中途半端で、一方ではイエスに魅力を感じ、他方ではイエスをいさめる。まだサタンの影響を受けているのだ。ペトロが理解するのはずっと後のこと。イエスの復活の後だ。

 

 イエスを理解するのは長いプロセスが必要なことだ。ペトロの苦労を見ると、私たちは慰められる。ペトロはイエスを信じるすべての人のシンボル。教会には、そのプロセスをたどった人がたくさんいる。神は一方では遠い大きな存在だが、他方でそばにいる。イエスによって示された神は、聖なる方でありながら、私たちのそばに来て、やさしさと愛をもって、罪人を腕に抱いたのだ。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」

  まだわかっていないペトロはイエスに向かってラビ(先生)という言葉を使う。マルコ福音書でラビという言葉を使うのはユダとペトロだけだ。イエスを裏切った二人だけがこういう言葉を使うのだ。要するに、ペトロにとって、イエスはまだ知恵のある者、力のある者、力をもって世を救おうとする者だったのだ。

「仮小屋を三つ建てましょう」

仮庵
仮庵

  仮小屋とはスコット。ユダヤ人たちには、エジプト脱出を記念する祭があった。その際、彼らは小屋を作って、一週間そこに住む習慣があった。こんにちもそうだ。彼らは、ちょうどその祭の時にメシアが来ると考えていた。

「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした」

 雲と声という二つのしるしは神の現存を示す。

「これはわたしの愛する子。これに聞け」

 神は、シナイ山でモーセに姿をあらわしたように、ここでキリストである我が子を啓示する。イエスはただの預言者の一人ではなく、神の子そのもの。律法と預言書に書いてあるすべてが彼の光によって、彼を中心にして理解しなければならない。その声を聞くのは、喜びと苦しみが混ざった体験で、人間の言葉で表現できない。

 「愛する子」とはただのかわいい子ではなく、兄弟の中で全財産を相続する人、跡取り息子のこと。「これに聞け」。神の子としてイエスは神の真実を語る。イエスの言葉は、神の言葉であり、絶対的だ。

「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」

 彼らのそばにいたのは、人間の姿をしているイエス。その目で貧しい人たちを見、その手で病気の人たちに触れて癒やしたイエスだ。人となったイエスに触れられることによって、弟子たちも私たちも神の子たちになる(filii in Filio)。

「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた」

 変容によって、イエスがどういう方かがほんの一瞬明らかにされたが、イエスを本当に知るのは十字架と復活のときだけだ。だから、イエスは誰にも話さないように命じる。それを聖書学者たちはマルコの秘密と呼ぶ。イエスは何人かを癒やした後にも沈黙を指示したことがある(たとえば、1・25、1・34、3・12、5・43、8・30)。悪魔もイエスが誰かを知っていた。そのような知識は十分ではない。

 

 ペトロが弟子のマルコに語り、マルコが私たちに書き残したように、ペトロがイエスを理解するのに苦労したことを知ると、私たちは感動しさえする。マルコに語ったペトロは、神の愛とイエスの美しさについて話しながらも、なかなかわからない自分自身の弱さ、またイエスの後についていくのに苦労する人たちについても話したからだ。イエスの弟子は英雄ではない。人間的な知識や道徳や能力をもつ強い人ではない。イエスの弟子は自分自身癒やされ救われて、その体験から人を癒やす力をもっている人なのだ。今日の3人の弟子は聖人だったから選ばれたのではなく、石頭だったからイエスから特別なことを教えられた。私たちにはなかなかわからないことだが、神の子であるメシアは力や名誉ではなく、十字架によって貧しい人のそばにいる。