四旬節第5主日(B)

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12・24)

ケシとチコリと麦(画像はWikimedia Commonsより)
ケシとチコリと麦(画像はWikimedia Commonsより)

四旬節主日(B)の振り返り

  四旬節は、洗礼志願者にとって、また私たち信者にとって、大きな恵みと学びの時だ。私たちは回心によってだけではなく、教会が選んだ聖書の箇所を読み、信じている事柄の理解を深めることによって復活節に向かって歩んでいく。その際、二つのことが大切だ。第一に、イエスはどういう方か。第二に、イエスの弟子であるために私たちはどう生きるべきか。

 典礼年によって重点は異なるが、B年の今年を簡単に振り返っておこう。第1主日の重点は、イエスが私たちの罪と闘って勝つ方であること。第2主日(変容)の重点は、イエスが父なる神を映す鏡であること。イエスの顔を見ると、父なる神がどういう方かわかる。第3主日(宮清め)の重点は、イエスが世の罪を取りのぞく方であること。またイエス自身が神殿であること。イエスのうちで私たちは神に出会う。第4主日の重点は、イエスが十字架上から私たちの病いを癒やすこと。イエスを見ることで私たちは癒やされる。

四旬節第5主日(B)

 第5主日の今日は、聖週間が始まる受難の主日の直前の大切な主日だ。教会が四旬節のあいだ聖書によって私たちに伝えようとしたことは、モザイクのように少しずつはっきりしてきており、今日、私たちを救うイエスの姿に最終的なスポットライトが当てられる。今日の箇所は、さまざまなテーマが含まれる複雑なページだから、注意すべきだ。

 イエスは長い旅の最後にエルサレムに着く。十字架につけられるためだが、今日の箇所はちょうどイエスがメシアとしてエルサレムに入るところだ。そこで、一つの出来事が起きる。福音書記者ヨハネが物語るその出来事の一つの細部は注目される。ギリシア人たちのグループがイエスに会おうとする。彼らは、異邦人だが、イスラエルの掟に従ったりして、イエスに関心を抱いた人たちだ。彼らは過ぎ越し祭のためにエルサレムに来て、イエスのことを聞いた。そして、フィリポのところに来て言う。

「イエスを見たい(イエスにお目にかかりたい)」

  ここで注目されるのは、「見る」という言葉がヨハネにとって宗教的な意味がある特別な言葉であること。彼らは、たんに好奇心を抱いて、有名なイエスを見たいと思っただけではない。たとえば、仏教でも、無明に対して悟りという言葉が使われ、「見る」という言葉には深い意味がある。この人たちは、イエスが誰かを深い意味で知りたいと思っていたのだ。

 教会が今日の箇所を選んだのは、何よりも洗礼志願者のため。二千年前からこんにちに至るまで、イエスを知りイエスに出会うためにこの時期に洗礼の準備をしている洗礼志願者のためだ。「イエスよ、わからせてください。あなたは誰か。あなたが示す神はどういう方か。私はなぜ生まれたか。私はどう生きるべきか。私の人生の意味は何か。なぜ苦しみがあるか。罪や絶望から逃れるためにどうすればいいか。」彼らはイエスを深く知り味わい、イエスと一つになることを望んでいる。そのことを表現するために、ヨハネ福音書ではさまざまな言葉が用いられる。イエスは水であり、光であり、命であると言われる。

 ヨハネ(あるいはその弟子)が福音書を書いたのはその出来事の数十年後になる。そんなに昔の出来事の細部を書くのには意味がある。 

「何人かのギリシア人がいた。彼らは…フィリポのもとに来て…フィリポは行ってアンデレに話し、フィリポとアンデレは行ってイエスに話した」

福音書記者ヨハネ、そしてこの箇所を選んだ教会が言いたいのは、イエスを見るのは抽象的哲学的な経験ではないということ。イエスが死んで復活したことはグノーシス的直観ではなく、人から人へ手渡され救いをもたらす具体的なメッセージだ。病気だった私が癒やされ、人に伝える。その伝承(使徒伝承)の鎖が教会であり、洗礼を受ける人はその鎖の中に入るのだ。

イエスの返答

  ギリシア人たちがイエスに会うと、イエスは衝撃的なことを言って驚かせる。イエスの返答はいつも質問と噛み合わない。イエスの返答にある4つの言葉に注目しよう。

1.「人の子が栄光を受ける時が来た」。

 この言葉には注意すべきだ。ヨハネ福音書では、宣教を始めたイエスの最初のしるしはカナのしるしだ。母に頼まれてもイエスは「わたしの時はまだ来ていません」と言う。ところが、今日の箇所では「時が来た」と言う。それはイエスの時であり、イエスによって神の栄光が現れる時であり、十字架の時だ。その時明らかになるのは、私たちが神から愛されていること、神がその神性を捨てるほど私たちを愛してくださること。

 ふつう私たちが何かを理解する時は、さまざまな資料を集めて知識を増やす。ところが、福音書では逆だ。イエスを理解するためには、余計なものを取り除いていくと核心がはっきりしてくる。今はどんどん十字架が見えてくる時なのだ。

 福音書記者ヨハネにとって、イエスはまことの神の子だ。イエスは命であり、私たちのために十字架上で自らの命を捨てる。それこそがメシアの約束の実現であり、イエスの秘密だ。十字架にイエスの秘密がある。

 ギリシア語でアゴニアという言葉がある。「闘い」という意味だ。イエスは十字架上で悪魔との最後の闘いに勝つ。大きな叫び声を上げて、息を吐く(日本語訳では「引き取る」)。それは聖霊を「吹きかける」ことだ。その時がヨハネにとって最高の時。ヨハネにとって復活は十字架上にある。

2.「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。

 この言葉によって、イエスの十字架死に含まれるもう一つのニュアンスが示されている。 イエスが十字架上で死ぬのは、一粒の麦のようにたくさんの実をつけるため。つまり、私たちが再生し、愛によって成長するためだ。イエスの十字架死は命を意味する。私たちは洗礼を受けてその死に入ることで生かされる。私たちの罪はイエスの十字架を見ることで癒やされるのだ。 

 だから、今日の箇所は、イエスを見るというテーマで先週の箇所とつながっている。ヨハネにとって、信じることはイエスを見ること。私たちの具体的な信仰生活で言うと、たとえば聖体を受ける時、感謝の気持ちで聖体を見ること。他の秘跡の時もそうだ。感謝するとは認知すること。イエスが救い主と知ること。ヨハネ福音書に出てくるさまざまなシンボル――死と命、目が見えないことと見えるようになること、口が聞けないことと話せる(祈れる)ようになること、喉が乾くことと命の水を飲むこと――が意味するのもそのことだ。A年は特に、ラザロの蘇生やサマリアの女などそのようなシンボルが出てくる。

3.「この世で自分の命を憎む人はそれを保って、永遠の命に至る」

  死ぬことによって生きるのはイエスだけではない。私たちキリスト者もそうだ。それはキリスト教の常識だ。私たちもイエスのようにイエスとともに死ぬことによって生きる。

  「自分の命を愛する者は、それを失う」。私たちは、自分に閉じこもって利己主義的になったり、喧嘩をしたりした時に関係を切ったりする危険がある。それはしかし、罪であり、自分を失うことである。

 「この世で自分の命を憎む人はそれを保って、永遠の命に至る」。イエスが洗礼志願者と私たちに言うのは、私がしたようにしなさいということ。私のように先に愛しなさいということ。自分の命を与える人は自分を見つける。今日イエスは十字架を宣言する。

4.「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」。

 「心騒ぐ」。イエスは神であるが、人間であるから、十字架の前で不安を感じる。遠藤周作も言うように、イエス自身も私たちのように不安を感じていたから、私たちはイエスがそばにいると感じる。 しかし、イエスは、「この時から私を救ってください」と言う代わりに、自分を委ねる。神の子羊であるイエスは、私たちの苦しみ、孤独や病気や困難をその身に負って、私たちの身代わりとなる。

 「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。イエスは、喧嘩しやすく愛することが難しい私たちのために十字架上で死ぬのだ。

 次の日曜日の受難の主日から聖週間が始まる。主日のミサ(土曜日の復活徹夜祭と日曜日の復活の主日のミサ)だけではなく、木曜日と金曜日も教会に来て典礼に与ることが勧められる。