復活徹夜祭(B)

あの方は復活なさって、ここにはおられない。(マルコ16・6)

アンニーバレ・カラッチ「キリストの墓の聖婦女」、1590年代、エルミタージュ美術館所蔵
アンニーバレ・カラッチ「キリストの墓の聖婦女」、1590年代、エルミタージュ美術館所蔵

 今年B年の復活徹夜祭の福音朗読箇所はマルコ福音書16章1−7(8)節。この箇所でイエスの復活を祝うのは教会にとって勇気が要ること。日本でなどミサでは読まれないが、8節に次のようにあるからだ。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。

 よく知られているように、もともとのマルコ福音書はこの文で終わる。マルコ福音書は4つの福音書の中で最初に書かれた福音書だから、復活とはどういうことかを知るためにもっとも読むべきなのがこの箇所だ。しかし、初代教会の時代から、信者たちはこの箇所にショックを受け、おそらくそのショックを和らげるために、他の福音書を参考に書かれた別のテキストが付け足された(マルコ16章9−20節)と考えられる。だから、マルコ福音書には二つの末尾がある。マルコが書いた末尾と、他の福音書を参考に後から付け足された末尾であり、私たちが読む聖書はその末尾で終わっている。

 今日の箇所、特に8節は、イエスの復活を信じる私たちを戸惑わせる。イエスの復活を見ていない私たちは、イエスの復活物語を読む時、当然、復活の様子についての記述や、目撃した人たちの証言と彼らの喜びや興奮などを期待する。しかし、この箇所は、私たちの期待を完全に裏切る。たとえばイエスが墓から出る様子についてはまったく書かれていない。そのような記述は2、3世紀になってはじめて出てくる。

 その代わり今日の箇所から見て取られるのは、婦人たちがイスラエルの律法にまだしばられていること。彼女たちは墓に行くのに安息日を避けて、イエスの死後3日目まで待ったのだ。イエスが自分の復活を生前に予告していたにもかかわらず、イエスの復活をまったく予期していなかった婦人たち。彼女たちが墓に行ったのは、生きている愛する者に会うためではなく、尊敬していた先生の遺体を律法に従って処置するためだった。

 続いて書かれているのは、大きな石についての心配。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。この言葉は彼女たちの内面を表現している。婦人たちは石のことを心配し、イエスについては死んでいるとばかり思っていたのだ。その石はしかし、すでにわきに転がしてあり、彼女たちは白い服を着た人(天使)から、イエスが復活したと告げられる。

 天使は、ガリラヤに行くように弟子たちに伝えるという任務を彼女たちに与える。この婦人たちは生前のイエスの周りにいたが、世話をするボランティアではあっても本格的な弟子ではなかった。その彼女たちにはじめて任務が与えられたのであり、その任務は本来の弟子たちに伝えるという任務だ。ここには役割の逆転がある。それにもかかわらず、彼女たちは恐怖に圧倒されて伝えに行かない。マルコが使う「恐れ」という言葉は、旧約聖書でも(たとえば創世記でも)神に出会った時の気持ちを表現する。しかし、彼女たちは復活の証人であるのに、その出来事を前にして喜びではなく恐れを抱く。十字架の経験の後に、イエスが生きていると言われてどうして黙っていることができたのか。復活とは何のことか。

 今日の箇所に後から付け加えられた箇所にも、私たちの常識や期待を裏切る記述がある。「彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」(16・11)。その後、イエスは弟子たちのそのような態度を叱る(16・14)。

 復活徹夜祭の夜は教会にとって、一年でもっとも聖なる夜だ。その夜、教会は、イエスの復活というもっとも大切なメッセージを伝えるために、信じる難しさを表現するこのような箇所を選んだ。この箇所を飛ばしたり他の福音書を参照したりせずに、この箇所にとどまって反省することがとても大切だ。この箇所に私たちの信仰の分かれ目があるからだ―私たちの信仰が表面的な信仰か深い信仰か、もっとはっきり言うと、名前だけのキリスト者か、本物のキリスト者か。

 そのほか、ガリラヤに行くようにという指示も単純な理解に反している。ふつうに考えると、イエスはエルサレムで死んで、エルサレムで葬られたのだから、もしイエスが生きているなら、エルサレムにいると考えられる。それなのに、なぜ、歩いて3日以上かかるガリラヤに行くのか。しかし、ここで扱われている問題は、イエスをどこで探せばいいかという問題なのだ。復活の主日に読まれる福音箇所にあるように、ヨハネとペトロもそうだ。墓にいないとマグダラのマリアに告げられたのに墓に行く。生きている人を死んだ人の中に探してもいないのに、世界中で墓にだけは行く必要がないのに。彼らは混乱している。

 このような記述でマルコは私たちに何を伝えたいのか。イエスの復活は私たちの信仰の核心だ。しかし、死を通って生きているイエスに出会うのは単純なことではない。私たちキリスト者も復活について当たり前のことのように話したりするが、マルコにとってはそうではない。一般的な考え方でも、人間は死んでも何か残るという予想があるが、マルコが伝えたいことはそのような常識的なことではない。生きているイエスの体験は、常識をひっくり返し言葉で言うのも難しい体験だ。その知らせは、神からだけ(天使を通して)ありうる。それは人間の知識、知恵、グノーシス、悟りよりもっと上のレベルのことだ。なぜなら、イエスは以前の命に戻ったのではなく、神の世界の命を生きているから。それを一瞥する体験をマルコは私たちに伝えたいのだ。そして、イエスを信じた人にも永遠の命が与えられるが、それは、それまでの命の回復ではなく、それ以上のことであり、神聖なもの。たとえばギリシア哲学でも霊魂の不滅について言われるが、その程度のものではない。それはそれまで誰も経験どころか聞くこともなかった真実だ。マルコと他の福音書記者たちは、私たちがこのようなことを知識として理解するために語っているのではない。彼らの第一の関心は、キリストの恵みによって私たちが同じことをすること。だから、私たちは信じて委ねるべきなのだ。

 多くの信者にとって、復活祭は特別な祭ではあっても、お祝いの言葉やパーティやイースターエッグなど外面的に祝うだけだろう。そして、その日が終わったら、終わったのだ。復活祭はただの祭であり、生活にも世界にも影響のないものとして祝われる。それは、信者としての私たちの弱さを意味する。しかし、復活祭はただの祭ではない。教会にとっては、典礼を見ても、復活祭は長い霊的な旅の出発点だ。復活節の長い50日間のあいだ、典礼は、私たちが大きな石に塞がれた状態から空の墓を体験し生きたイエスに出会うように、さまざまな神の言葉を用意する。

 イエスの故郷ガリラヤに行くとは、イエスの死を体験してからもう一度新しい目でイエスの生涯を見直すということ。マタイ福音書では、イエスが指示しておかれた山に登ると言われている(28・16)。それは、最近パパ様が言ったように、初恋の場所に戻ることだ。だから、天使の指示は、新しい目でイエスを見るようにという勧めなのだ。私たちのところに来た神であるイエスを十分に受け入れる心を作るために復活節の50日間がある。

 マルコ福音書の結末は、ハッピーエンドではなく、失敗を意味する。その結末が私たちに伝えるのは、復活の経験は、軽いことではなく、真剣なことだということ。逆に言うと、私たちは、キリスト者であったとしても、その体験をしておらず、イエスを本当に見ないで自分勝手な形で見ているという恐ろしい危険もある。キリスト者と言っても、イエスが復活していないような生活を送る可能性があるのだ。 もう一つのエピソードを思い出すと、マタイ福音書によると、イエスが父なる神のもとに戻る昇天の時に、弟子たちのうちにまだ疑っている者もいたと言う。その可能性があるのが信仰の状態だ。私たちの信仰は、儀式や信心業、組織や行事、建物や掃除にあるのではなく、生きたイエスの体験にある。だから、今夜私たちが知った婦人たちの「恐れ」は、卵の祝福よりもずっと大切な宝物なのだ。

 復活節の50日間、教会はさまざまな形で、イエスが生きているしるしに敏感になる(「目を開く」)教育をしてくれる。そして、イエスのように生きる力を与えてくれる。イエスは、有名で歴史に残っても死んだ人であるのではない。イエスは、私たちを愛する神、そして私たちが愛すべき生きている神。その方に会うことが復活祭なのだ。