復活節第3主日(B)

わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。(ルカ24・39)

ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「使徒たちの食卓に現れるキリスト」、1308年、ドゥオーモ付属美術館 (シエナ)所蔵
ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「使徒たちの食卓に現れるキリスト」、1308年、ドゥオーモ付属美術館 (シエナ)所蔵

エマオの経験

  今日の箇所は、復活したイエスがエマオで弟子たちに現れた箇所の続き。エマオは宿が一軒だけあるような小さな村で、エルサレムから10数キロ離れていたようだが、正確にどこにあったか専門家にもよくわからないようだ。それにもかかわらず、私たちキリスト者、そしてキリスト者以外の人もエマオへの旅を知っている。それは失意の経験だ。病気、災い、友人の死、裏切りなど、生きる喜びを失わせる苦い経験だ。

復活のイエス、現れる

 エマオでイエスが二人の弟子に現れたことを先行する箇所で細かく記したルカは今日の箇所で、二人の弟子が喜び勇んでエルサレムに駆けつけたことを書く。エマオでの出来事は夕方だから、もう夜だが、それは、イエスが復活したその日の夜だ。エルサレムに戻ると、他の弟子たちから知らせがあり、二人もエマオの出来事を報告し、大騒ぎになる。まさにその時、突然イエス自身が現れる。「あなたがたに平和があるように」。イエスがここにいる。きっと顔に笑みを浮かべ、手を広げていただろう。

 

 言葉で言い表せない一日だったにちがいない。朝早く、婦人たちの衝撃的な経験で始まった。天使がいて、イエスの復活を告げる。その話を聞いても、弟子たちは真に受けなかった。その一日の終わりの出来事が今日の箇所だ。不思議なことに、イエスが復活した一日ははじめと終わりで疑いに挟まれている。今日の箇所には、「恐れおののき」「うろたえ」「疑い」について書かれている(36−38)。ルカは、弟子たちのその反応に一つの説明を加える―「喜びのあまりまだ信じられず」(41)―が、それは説明にならない説明だ。

「亡霊」ではなく

  もう一つの言葉はヒントになる。「亡霊を見ているのだと思った」。イエス自身も「亡霊」という言葉を使う。福音書記者ヨハネは復活したイエスに会った喜びを強調する(20・20)が、ルカは「亡霊」のことを書く。それは、大切なことを私たちに伝えたいからだ。ルカが言いたいのは、イエスの復活が亡くなった人の実体のない思い出ではなく、完全に新しいことだということ。イエスは死ななかったかのように以前の命に戻ったのではなく、新しい命を生きている。神学者パウロも苦労しながら「霊の体」について書く(1コリ15・35−)。イエスの体は雲を掴むようなものではなく、何かリアルなもの。弟子たちはそれを表現するのに苦労したが、ルカはこの箇所だけではなくその福音書全体で、さまざまなイメージを用いてイエスの新しい現実性を表現しようとする。たとえば「恐れおののき」は、イザヤ6章で、主なる神を見たイザヤが自分の汚れを感じたことを思い出させる。復活の経験も、それを理解するために、心を清め命を委ねなければならないのだ。お告げの時のマリアも、御変容の時の弟子たちもそうだ。

アリ・シェフェール「聖アウグスティヌスと聖モニカ」、1854年、ナショナル・ギャラリー (ロンドン)所蔵
アリ・シェフェール「聖アウグスティヌスと聖モニカ」、1854年、ナショナル・ギャラリー (ロンドン)所蔵

 また、この箇所には、手や足を見せるとか食べるといった親しさも表現されている。ルカはギリシア人のためにギリシア語で書いているが、ギリシア文学には、死んだ人の亡霊が現れるという話がよくある。たとえばホメロス『オデュッセイア』。死者の国に行き着いたオデュッセウスに母親が現れるが、抱こうとしても空気のように消えてしまう。『アエネーイス』でも、アエネーアースが死者の国で父親を3度抱こうとしても、その度に父親は消えてしまう。しかし、復活したイエスは、「亡霊」ではない。それは、弟子たちが三年間いっしょにいたとき見たイエス、触ったイエス、いっしょに食べたイエスだ。変容の山ではそれは垣間見られただけだったが、今は永続的にそうだ。たとえばアウグスチヌス『告白』の有名なページでは、オスティアで母モニカと話しているうちに神に触れた超越体験について書かれているが、復活したイエスの経験は、そういう一時的な体験ではなく、永続的な経験なのだ。ルカが言いたいのは、十字架死の後イエスはいなくなってしまったのではなく、自分を信じる人のそばに永遠にいるということ。喜びの時も悲しみの時もそうなのだ。

傷のある手と足

ミケランジェロ「最後の審判」、システィーナ礼拝堂、1536ー1541年
ミケランジェロ「最後の審判」、システィーナ礼拝堂、1536ー1541年

  イエスは父なる神のもとに戻った後にも、人間性を保っている。たとえばミケランジェロの「最後の審判」でも、イエスに傷が残っている。三位一体の中のイエスは十字架のしるしがあるのだ。それだけではなく、信仰によってキリストと一つになった私たちの人間性も神の中に移された。私たちの生活の中で、つまらなく思えたこと、苦しめられたことも、イエスの復活によって永遠の価値をもつものとなる。私たちの歴史は神の歴史のうちに移されたのだ。

 イエスは死を通って復活した。しかし、それはイエスに限られる出来事ではない。イエスは一人っ子ではなく、長子なのだ。「御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です」(コロサイ1・18)。イエスは新しい世界の「初穂」であり、彼に起こったことは、信じるすべての人に起こることができると福音書記者ルカは言いたいのだ。それは教会の大切なメッセージだ。

 今日の箇所で印象的なのは、イエスが手と足を弟子たちに示したこと。「わたしの手や足を見なさい」。それは十字架の釘の跡、傷のある手と足だ。ふつう、人のアイデンティティを示すのは顔だ。しかし、ここでは、傷のある手と足が復活したイエスの現実性を示す。イエスのアイデンティは私のために命を捧げたこと。十字架につけられたその姿のうちに、私たちを永遠に愛する神の愛を見るように勧められている。

 ミサの中で割かれるパンも、私たちのために十字架上で亡くなったイエスの姿をしている。今日の箇所では、イエスは共同体の中に現れる。いっしょにキリストの体を分かち合う感謝の祭儀によって、キリスト者は神から赦され、その赦しを人と分かち合うことができる。

 

宣教の始まり

 最後にルカが思い出させるのは、本当に生きた聖体から宣教も始まるということ。宣教とは復活した生きたイエスに出会って、人に黙っていられないこと。イエスの復活を信じるのは、根本的に自分を変えること、死から命に移り、恐怖から宣言に移ることだ。

 

 私たちの共同体も今日、イエスとの曖昧な関係(「亡霊」)ではなく、イエスと個人的な友情をもち、イエスを価値観の尺度としてものを判断するように勧められている。復活節の七つの日曜日の恵みを逃さないように努めたい。