復活節第4主日(B)

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10・11)

インマヌエル教会(コペンハーゲン)南東扉上モザイク
インマヌエル教会(コペンハーゲン)南東扉上モザイク

復活節

 復活節は、イエスの復活から昇天を経て聖霊降臨までの50日間。昇天によってイエスは私たちの前から姿を消し、聖霊降臨によって教会の時代が始まる。それを知っている教会は、この大切な期間のあいだ、よく選ばれた聖書の言葉をはじめいろいろな形で、イエスを知るように私たちを導く。

 復活節の50日間、典礼では詩編以外の旧約聖書は読まれない。今や預言の時代は終わり、実現の時代だから。キリストは世に来て死んで復活したのだ。だから、復活節には新約聖書だけが読まれる。復活節のもう一つの特徴はヨハネ福音書。古代教会では、復活節には特にヨハネ福音書が大切にされ連続的に読まれた。復活節の特徴は他にもある。たとえば第2主日、神のいつくしみの主日には毎年必ず聖トマスの物語が読まれる。そして、第4主日の今日は「よい牧者の主日」と呼ばれ、ABCの典礼年ごとに違った箇所ではあるが、どの年もヨハネ福音書10章から読まれる。 

 復活節の50日間を生きる時に大切なのは、復活節の目的を忘れないこと。その目的とは、ミサの式文やイエスの一つ一つの教えではなく、イエス自身を知ること、それだけだ。復活したイエスは私たちにとってどういう方なのか―それを知るために私たちに与えられた恵みの期間が復活節なのだ。だから、復活節は本当は他のことを忘れてそれに集中すればいい。ミサの中に与えられる聖書の言葉は、復活のイエスに出会った弟子たちの物語だ。彼らはそれぞれの形で、一つの大切なことを私たちに教えようとしている。イエスとは何者か。イエスがキリストであるとは何を意味するか。それによって私たちの生活はどう変わるべきか。復活節の50日間によって、一年間の残りの期間は照らされることができる。だから、私たちの目の前に燃えているともし火(イエス・キリスト)をともすことが大切だ。今日のミサではその恵みを願いたい。与えられた恵みによってイエス自身を私たちが知ることができるように。

よい牧者

 「よい牧者」はキリスト者によく親しまれた言葉だ。この言葉は、修道会や教会の名称として、あるいは何かの善意の活動の名称としても使われる。けれども、イエス自身は「よい牧者」というより「美しい牧者」だ。「よい」という言葉の原語もギリシア語では「美しい」という意味。それは、観想的な言葉であり、愛する時の言葉だ。もちろんその言葉の中には、行いが道徳的に善いというようなニュアンスもあるが、その土台には観想的なところがある。私たちは復活したイエスの前にいて、その美しさを楽しみ、その光を浴びるのだ。それがヨハネの言う「よい牧者」だ。ただの道徳的善ではなく、心から出るもっと深い霊的な美しさ、それがイエスの美しさだ。

 ヨハネ福音書は4つの福音書の中では一番最後に書かれた福音書。紀元80年頃、ヨハネとその周りに集められた教会はイエスを黙想していた。ヨハネ福音書はその黙想の産物だ。ヨハネ福音書は他の福音書と違って、エピソードよりもいくつかの言葉を大切にする。命とか水とか愛とか、それらの言葉はダイヤモンドのようだ。ダイヤモンドをいくつも集めると、ダイヤモンドとダイヤモンドのあいだのきらめきが大きくなる。それがヨハネ福音書だ。すばらしい言葉がたくさん出て来るから、一つ一つを分析し、そしてそれをいっしょにして眺めてみたい気にさせるのだ。 

 今日のダイヤモンドは「羊飼い」という言葉だ。ヨハネ福音書10章では羊飼いについてさまざまなことが言われる。その一つは、以前の教会堂の時から北白川教会聖堂の扉の上に掛けてある言葉だ。「わたしは門である」。大切な言葉だから、通る時は見ておきたい。「わたしは…である」というのはヨハネ福音書独特の啓示だ。ヤーウェの神は自分の神を言わず、やることを言う。ヨハネが言いたいのは、キリストが神だということ。

今日の福音朗読

  そして、B年の今年はヨハネ福音書10章の2番目の箇所が読まれる。いくつかの点について黙想したい。

自分の命を捨てる羊飼い

  ルカ福音書の「見失った羊」のたとえはイエスのやさしさを感じさせる。私たちがいなくなったら、イエスは探し回って、私たちを見つけ、私たちを抱き上げる。イエスは私たちの罪を赦すのだ。しかし、今日私たちが読むヨハネの箇所は違う。今日の箇所にも羊が出て来るが、ヨハネが示したいのは、やさしい羊飼いというより、命を捨てる勇敢な羊飼いだ。もちろんやさしさもあるが、命がけで敵と戦う羊飼いだ。羊の敵とは狼。狼は獰猛だ。羊を襲う時には、一頭だけではなく何頭も殺す恐ろしい動物だ。今日ヨハネは、イエスが羊飼い、しかも雇い人ではなく本物の羊飼いだと言う。だから、今日のテーマは、雇い人と羊飼いの違いだ。

  ヨハネによると、羊飼いとは羊を愛する者であり、それに対して雇い人は羊を愛さない者だ。私たちが仕事をする時多くの場合そうだが、雇い人はその仕事を愛するよりも、その仕事でもらえるお金を愛する。当時もこんにちも、人を雇う時には仕事の内容の取り決めがあり、それ以上のことをしないのが雇い人だ。だから、雇い人は狼が襲う時に命を捨てることをしない。羊を守るためにはじめは何かしたとしても、手に負えないなら自分の命を守るために逃げる。ヨハネが言うには、ユダヤ人はそういう雇い人だが、イエスはそうではない。イエスは私たちを救うために自分の命を捨てる方だ。イエスは私たちが自分よりも大切だと思っている方なのだ。聖木曜日、私たちはイエス自身から同じことを聞いた。イエスは弟子たちの足を洗った時、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言った。ペトロは理解せず驚いていたが、足を洗うとは、イエスにとって私たちが自分よりも大切だというしるしなのだ。神学者パウロもその手紙で、イエスは自分が神であることを捨てるほど、私たちを愛してくださった神だと言う(フィリピ2・6、7)。イエスにとって私たちは自分よりも大切なのだ。だから、彼にとっては私たちに自分を捧げるために死ぬのが当然のことなのだ。今日イエスが言うのは、私が死んだのは敵が強かったからではなくて、私は自由に死んだ、あなたたちを愛しているために死んだということ。だから私たちは救われたのだ。

イエスの愛の秘密

 イエスはどうしてそれほどの愛で私たちを愛することができたか。それについて今日の箇所に大切なヒントがある。イエスは父なる神から愛されているから。イエスは、父なる神から愛されているその体験から、私たちを自由に愛することができるのだ。このことは、イエスを理解するために、そして私たちが互いにどうすべきかを理解するためにとても大切なことだ。なぜか。私たちは、父なる神から、キリストから愛されているという自覚がないと、人を赦すことができない。人を愛することができない。自分の子どもを殺した人や自分の人生を滅茶苦茶にした人を赦し愛するのは人間にはできないことだから。もしそれができるなら、振り返って、自分がどれだけ父なる神から、キリストから愛されていることを知っているからだ。人を赦す力はその自覚からだけ得ることができる。イエスが父なる神の前で神の実子として永遠に生きていると同じように私たちも同じ愛で満たされているという自覚から、私たちは新しく創造され、新しい人間になり、憎しみと罪を超えることができる。さまざまな困難、苦しみや病気や死を超えることはその自覚がなければできるはずはない。これはとても大切なことだ。どんなことがあったとしても、たとえ父母から見捨てられ友人から裏切られたとしても、イエスから絶対に愛されていること、イエスが私から絶対に離れないことを自覚するなら、立ち直ることができる。

  イエスは私たちのために命を捨てた。そして、50日間の終わる時、イエスは自分の属する永遠なる神の世界に戻る。その時も、十字架にかけられた時に私たちのために血を流したその手と足の傷口はしるしとして残る。私たちはそこから生きる力を得る。今日私たちはヨハネの言葉に導かれ、この美しいイエスの前に連れて来られた。その言葉が私たちの心の中に種のように入り、災いの時、苦しみの時、人に触れる時、さまざまな生活の問題の中で力をいただくことができるようにイエスの恵みを願いたい。